評論には確たる文体というものがある。これを前提としないと論のヴィジョンをつかめないし、扱われている問題の襞を見逃してしまう。対象に必要な文体を創造すること。枝葉末節へ過剰に拘泥するオタク的な揚げ足取りは、ネットの発展を通して広く可視化されたが、それは何ら生産的なものにならない。
2011-02-12 00:57:13「評論の文体」「対象に必要な文体を創造」というのは確かにあるなあ。自分でも一応、そういうのを試みて書いた文章はある。しかし、あれって大変な作業なんだよね。完遂できたことはない。
2011-02-12 01:01:15「それを説明するというのは断じて我々の仕事ではない、と。哲学は事実として「純粋に記述的」であるのだ。」(ウィトゲンシュタイン『青色本』)
2011-02-12 01:16:49「批評少女まどか☆クリティカ」第1話「本に書いてあった、ような……」第2話「それはとっても嬉しいなって」第3話「もう学者も何も怖くない」第4話「批評も、文学も、あるんだよ」第5話「廃刊なんて、あるわけない」第6話「こんなの絶対おかしいよ」
2011-02-12 19:14:08どんなんかあんまり想像できない RT @hiroyuki_in: そう言えばアニメの批評はあるけど批評のアニメってないんだよな
2011-02-12 19:04:38アニソンネタのテクノはあるけどテクノネタのアニソンはない、みたいな…@sakstyle どんなんかあんまり想像できない RT @hiroyuki_in: そう言えばアニメの批評はあるけど批評のアニメってないんだよな
2011-02-12 19:07:06.@sakstyle 映像を批評する映像といえば、ジジェクの『倒錯的映画ガイド』はよく出来ていましたよ。相原コージさんと竹熊健太郎さんの『サルでも描けるまんが教室』は、漫画を批評する漫画作品だと思います。(というか、僕はそう読んでいた)
2011-02-12 19:26:36アニメでアニメを批評するものが何かあったような……と考えていたら、あれだ、押井守監督『トーキング・ヘッド』の作中アニメだ。
2011-02-12 19:42:16ゴダールの映画史とかは、まあそういう試みなんだろうけどな。批評アニメって、批評家が出てくるアニメではないだろう。アニメそのものが批評になっているようなアニメだろう。ところで、それは「批評的な作品」とは何が違うだろうか
2011-02-12 19:09:39言葉は、representationにも論述にも使われるが、映像は、もっぱらrepresentationに使われるものであって論述に使われるものではない(しかし、リテラルに知覚するための道具として使われることはある)から。
2011-02-12 19:14:30言葉と映像で、論述に使えるか否かの違いが何故生じるかは、まあ色々あるだろうけど、論理定項の有無とかは理由の一つとしてあげられるだろう
2011-02-12 19:17:56ところで、フィクションについて考えるとき、まず小説(言葉によるフィクション)から考えはじめ、それの応用・発展として映像作品や絵画、マンガ作品へと向かうことが多いけれど、この順序は間違っていたのではないだろうか。
2011-02-12 19:19:24言葉だけの小説の方が、色々な要素が入り交じっている映像作品、マンガ作品よりも単純なので分析しやすいだろうという理由があるだろうが、フィクションとして見た場合、言葉は機能が色々あって逆に複雑なのではないか。言葉は、報告も論述も出来てしまうので結構簡単にフィクションを逸脱する
2011-02-12 19:21:03もっとも、映像作品やマンガ作品は、論文の中でそれを引用したり記述したりすることが、小説よりも難しいということもある。(ところで、『映画理論講義』が映画で映画論ができないかと提起しているのは、この引用の問題のためである)
2011-02-12 19:22:53さっき、蒟蒻畑のコラ写真作った人が謝罪しているエントリを見たけれど、これってネタ犯罪予告が逮捕されちゃうのと同根の問題だよなー。ある文脈の中ではネタであるものが、別の文脈にのったときにベタになってしまう問題。こうやって一般化すると、色んなことがそう見えてくるなw
2011-02-12 19:26:47