「武田家と家臣の信仰世界」

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日光81 @nikko81_fsi

武田家と家臣の信仰世界。まずは仏教。個人的におもしろかったのは、武田不動尊が信玄公の像そのままではなく、不動明王として自身を模刻したの謂れの話ですね。ソースを知らなかったんですが、どうやら甲陽軍鑑の品第八にあるそう。

2016-09-17 18:00:23
日光81 @nikko81_fsi

このエピソードは確か伊達政宗botで虎哉宗乙から幼い政宗が聞いて信玄賢いと感心するツイートで知ってソースは知らなかったのですけど、実際に虎哉が政宗に語ったかは別にして・・・

2016-09-17 18:01:59
日光81 @nikko81_fsi

「信玄公自身が存命のときは敵国からは攻められないが、死んだ後は分国を掠め取られ甲斐にも侵攻をうけたとき、あの憎き信玄の像とわかれば、手足をもがれて壊される。しかし不動明王に似せておけば手荒な真似はしないだろう・・・」というもの。でも、これ勝頼さん立場ないよ・・・(汗)

2016-09-17 18:03:16
日光81 @nikko81_fsi

もうひとつ、武田不動尊や円光院蔵勝軍地蔵・刀八毘沙門などを残した康清は七条大仏所の出身ってこと。山梨市にある清水寺に伝わる勝軍地蔵に七条大仏所の銘があるそう。七条仏所とは平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来を造った定朝に始まり、運慶・快慶を生んだ由緒ある仏像製作所。

2016-09-17 18:03:51
日光81 @nikko81_fsi

この武田不動尊は甲陽軍鑑だと元亀元年(1570年)、寺伝によると天文20年(1551年)と大きな開きがあるんですが、こんなところから仏師を招くとは、いずれにしても信虎以来の京とのつながりの深さを示すエピソードとしても興味深いですよね。

2016-09-17 18:05:46
日光81 @nikko81_fsi

あと信玄公は実は毘沙門天も振興してたんだよ?というのは、円光院の刀八毘沙門天像を陣仏にしてたことからもわかるんですが、勝手にギルガメッシュみたいに(笑)腕を生やして、毘沙門天改造するのはなんで・・・ということからおもしろい話題をご披露いただき。

2016-09-17 18:06:24
日光81 @nikko81_fsi

どうも当時の感覚から言うと、神に祈って勝たせてくださいというだけでなく実際神仏が陣中に現れて、自ら武器を持って直接戦ってくれているというような感覚でいたそうで、祈りが強いほど神仏も強くなる・・・と思っていたそう!だからこそ「実際に強そうな」進化をしていくのではと。

2016-09-17 18:06:52
日光81 @nikko81_fsi

これってさぁ・・・召喚魔法だよね?と思ったわたしはFF脳(笑)川中島合戦で、信玄公が召喚魔法「不動明王」を唱詠、謙信さんが召喚魔法「毘沙門天」を唱詠、みたいな・・・(笑)謙信さんが一緒に戦ってくれたと感じた「泥足毘沙門天」がまさにそうなんですが、こういう感覚が一般的だったの?

2016-09-17 18:07:28
日光81 @nikko81_fsi

他にもまだ仏教関係で興味深い話題。さらにこれも甲陽軍鑑(巻十三・品第三十九)ソースなのですが、比叡山焼き討ちの後、多くの逃れた僧を保護しただけでなく、延暦寺をなんと身延山に再建しようとしていたようなんですね。延暦寺再興を目論んでいたのは知ってましたが、なんと領内にとは!

2016-09-17 18:08:04
日光81 @nikko81_fsi

身延山には日蓮宗の総本山久遠寺があるわけですけど、信濃により広大な寺領をやるから退いてくれない?とお願いしたそう。久遠寺内でも話し合いになって丁重にお断りされたそうですけど。それも甲陽軍鑑しか根拠がないらしいですが善光寺だって甲斐に造ってますし、信玄公ならやりかねない(笑)

2016-09-17 18:09:03
日光81 @nikko81_fsi

直接武田には関係ありませんが、あと直接は関係ないのですけど、高野山の宿坊が大名と宿坊契約を結ぶまでの経緯だったり、禅宗の僧侶の幅広い知識人としての側面がおもしろかったかな。

2016-09-17 18:09:45
日光81 @nikko81_fsi

禅宗の僧の皆さん、中国からの情報に精通しているのですが教義に関わることだけでなくって、さまざまな技術、例えば土量計算なんかにも長けているそう。それが信玄堤や各地の武田城郭を支えた可能性があるわけなんですね。しかも高僧だからというわけだけでなく、全体的に知識が豊富な人が多いとか?

2016-09-17 18:10:20
日光81 @nikko81_fsi

高野山の話では、逆修供養の話も勉強になりました。確かに追善供養だけでなく逆修供養が多いというのは、武田二十四将図録などで知ってはいたけど、単純に生前に供養するだけでなく、ちゃんと意味があるんだということを知り・・・

2016-09-17 18:12:14
日光81 @nikko81_fsi

というのも、追善供養は供養される人というより、供養する人がより徳を積む行為。その徳は供養する人が六分、供養される人が一分という割合らしいですが、これを生前に行うことで、七分全得つまりぜんぶ供養する人がもってくというもの。これがどうも高野山では流行っていた?のでしょうね。

2016-09-17 18:13:03
日光81 @nikko81_fsi

さて、続いて神道や民間信仰について。仏教は系統立てて、統治あるいは武威発揚に活用していく印象は強いのですけど、神社にもこれがちゃんとあったんですね。やはりここにも戦略的な宗教活用を感じます。

2016-09-17 18:13:50
日光81 @nikko81_fsi

ベースは仏教の場合と同じ、祖となる甲斐源氏との関わり。不動明王は大聖寺の加賀美遠光が清涼殿の不動像を持ち帰った点ですが、神道の場合は八幡信仰。信虎が石和から甲府に本拠を移した際に、石和八幡を勧請して、府中八幡を創建したんだそう。ちょうど現在の相川小のあたり、屋形の西側。

2016-09-17 18:15:23
日光81 @nikko81_fsi

これを信玄公は永禄三(1560)年に国内の有力大社を除く中小の社の禰宜に対し、府中八幡の神前に交代で武田家の武運長久を祈祷することを命じます。永禄三年というと、第四次川中島の前年。上杉との緊張が高まっている時期ですから、御仏だけではなく、八幡神の加護をも本格的に必要としたから?

2016-09-17 18:15:55
日光81 @nikko81_fsi

あとそれまでは統制の対象になってなかったのを一気に統制下においたということからも、個人的に切迫感を感じましたね。翌年閏4月には、さらに国中地域の160社を2社ずつの組にして、各組2日ずつ祈祷をする勤番制度として組織化。第四次川中島の直前(合戦は8~9月)ですね。

2016-09-17 18:16:37
日光81 @nikko81_fsi

八幡信仰に加えて諏訪を制圧してから、信濃一宮である諏訪大社も武威発揚に組み込まれていき、諏訪明神も重要な位置を占めてきますね。甲州の大社は直接は対象になっていなかったようですが、諏訪明神は積極的に武田家の武運長久を祈るよう命じられてますよね。武田二十四将展でも書状が出てました。

2016-09-17 18:17:38
日光81 @nikko81_fsi

民間信仰としては、庚申待が屋形で行われていたってこと。しかも、その根拠となる書状があの源助(香坂じゃないよ!)への言い訳をしてる若い晴信さんの書状だというから、二度驚きです。誓詞の内容はまぁいいとして(笑)そのあとがとんでもなくおもしろかったんです!

2016-09-17 18:18:20
日光81 @nikko81_fsi

誓詞には生島足島神社の起請文のように、法印が付いた紙に書かないと誓詞にならないんですけど、晴信さんこんなことをこっそり書いてて・・・・法印がないとダメなんだけど、「甲役人多候間」、白紙に書いたけど、明日法印付のでもっかい書くよ!と言ってるんですね。

2016-09-17 18:18:58
日光81 @nikko81_fsi

この「甲役(甲府の役人?)」がどうも誤読の可能性があって、「申待」ではないかと。つまり、この書状は夜に書かれていて庚申待で人が皆起きてて詰めているからちょっと明日にしてくれって言ってるんですね・・・ほほぅ・・・

2016-09-17 18:19:21
日光81 @nikko81_fsi

で。晴信さんは後に法印つきで源助に誓詞を書いたでしょうか?どさくさにまぎれて法印付では誓詞を出さず、あれは法印がないから無効~とかいっちゃってたりしませんかね(爆笑)

2016-09-17 18:19:45
日光81 @nikko81_fsi

そのほか、有名ではないとある家臣の信仰の例や武田家に特徴的な五輪塔と宝篋印塔をセットでひとつにする造塔法について。少なくとも武田信昌まで遡ることができるそうで、同時ではない可能性もあるそうですが、ともに信昌を弔ったもの。

2016-09-17 18:20:12
日光81 @nikko81_fsi

その他、穴山信綱(信風、穴山梅雪の祖父)、穴山信嘉(梅雪弟)などの実例があるほか、大泉寺の「武田三代の墓」とされている供養塔も、実はこのうちの五輪塔と片方の宝篋印塔がセットで信虎供養塔(もしくは墓)ではないか?という指摘があるようなんです。

2016-09-17 18:21:11