ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』読書メモ集

ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(大久保和郎訳、みすず書房、1969)の読書メモをまとめました。Hannah Arendt, Eichmann in Jerusalem : A Report on the Banality Evil, The Viking Press, New York, 1963, 1965.
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荒木優太 @arishima_takeo

正義は孤高を持することを要求する。正義は怒りではなく悲しみを許す。正義は脚光を浴びるという快感を厳しく避けることを命ずる。byアレント『イェルサレムのアイヒマン』

2016-09-19 13:49:23
荒木優太 @arishima_takeo

裁判が芝居に似ているのは、両者とも行為者ーー犠牲者ではなくーーをもって始まり行為者をもって終るという点である。byアレント『イェルサレムのアイヒマン』

2016-09-19 13:53:33
荒木優太 @arishima_takeo

裁判の中心にいるのは常に行為をなした者でありーーこの点で彼はドラマの主人公に似ているーー、彼が苦しむとすれば、彼自らの為したことのために苦しむのでなければならず、彼が人に与えた苦しみのためであってはならない。byアレント『イェルサレムのアイヒマン』

2016-09-19 13:54:45
荒木優太 @arishima_takeo

「反ユダヤ人主義はヒットラーのおかげで、おそらく今後永久にとまでは行かなくとも、まともに相手にされなくなってしまった」(アレント『イェルサレムのアイヒマン』)。いやァ、そりゃあどうかな、と思えてしまう2016年のこの世界。

2016-09-19 13:57:33
荒木優太 @arishima_takeo

ドイツがアインシュタインを追放したことを遺憾だとする声を挙げるものが今もって多い。だが彼らは、そこらの町角にいるハンス・コーン少年を殺すことのほうがはるかに大きな罪だったことを知らないのだ、たといこの少年が天才ではなかったとしでも。byアレント『イェルサレムのアイヒマン』

2016-09-20 14:38:50
荒木優太 @arishima_takeo

何も悪いことをしていないときに罪責を感ずるというのはまことに人を満足させることなのだ。何と高潔なことか! それに反して、罪責を認めて悔いることはむしろ苦しいこと、そしてたしかに気のめいることである。byアレント『イェルサレムのアイヒマン』

2016-09-21 14:01:35
荒木優太 @arishima_takeo

かつていかなる罰も人間が罪を犯すのを妨げるに足る阻止力を持たなかった。反対に、どのような罰がおこなわれたにせよ、これまでになかった或る罪が一度おこなわれてしまえば、それがふたたびおこなわれる可能性は最初におこなわれる場合よりも大きいのだ。byアレント『イェルサレムのアイヒマン』

2016-09-21 14:27:40
荒木優太 @arishima_takeo

アイヒマンという人物の厄介なところはまさに、実に多くの人々が彼に似ていたし、しかもその多くの者が倒錯してもいずサディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだったし、今でもノーマルであるということなのだ。byアレント『イェルサレムのアイヒマン』

2016-09-21 14:30:44
荒木優太 @arishima_takeo

アイヒマン裁判で問題になったより広汎な論点のなかで最大のものは、悪をおこなう意図が犯罪の遂行には必要であるという、近代の法体系に共通する仮説だった。byアレント『イェルサレムのアイヒマン』

2016-09-21 14:32:01
荒木優太 @arishima_takeo

みずからその場にいてその事に関係したのでなければ判断を下せないとする議論は一見すべての人を首肯させるように見える。ただしそれが正しいとすれば、裁判の運営も歴史の記述も不可能であることはあさらかだと思えるが。byアレント『イェルサレムのアイヒマン』

2016-09-21 14:48:54
荒木優太 @arishima_takeo

アーレント『イェルサレムのアイヒマン』読了。マルティン・ブーバーがアイヒマンの処刑を「ドイツの多くの青年たちが感じていた罪責を解消するのに役立つ」という理由で反対していたことに驚く。そんなブーバーに対してアーレントが「失望させられた」状態になっているのに更に驚く。

2016-09-21 15:04:13
荒木優太 @arishima_takeo

アーレントが面白いのは、アイヒマン裁判も演劇の比喩で捉えている所。「ベン=グリオンこそ、この裁判全体の見えざる舞台監督だったのだ」、「裁判が芝居に似ているのは、両者とも行為者――犠牲者ではなく――をもって始まり行為者をもって終わるという点」。無論、これは彼女の公共空間論に直結する

2016-09-21 15:08:06
荒木優太 @arishima_takeo

アーレントにとって、公共空間での物語行為によって、人は「何」ではなく「誰」を顕わにさせる。だとするならば、アイヒマン裁判は、或いはアーレント自身のレポは彼の「誰」を開示させるものだったのか。開示しなかったとして、そこにはなにが足らないのか。「誰」論がイマイチ分からないのはこのへん

2016-09-21 15:15:41