日本風のコモンローは法教育を困難にする

1.日本の無意識にあるコモンローは曖昧で原理がない。 2.こうした結果、平等主義という不寛容(差別)を招き、人権が侵害されても気づかない。思考停止に陥る。 3.それゆえ原理なき日本のコモンローが法律に対して要求するものが錯綜しており、法教育の段階(実務教育以前で)において法教育にも困難がある。
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後藤直樹 @gogofairbear

私たちは、近代システムと曖昧な空気が支配する「世間」の二重世界に生きている。建前と本音ともいえるが、曖昧な空気的なものなので、本音の部分が本人たちには意識されないのが厄介だ。なんとなく自然とそうなってしまう。それが当たり前なのだ。故に人権侵害には誰でも反対するがそれに気づかない

2011-01-16 17:49:38
後藤直樹 @gogofairbear

見えにくい世間は、妖怪のようなもので、私たちを操る。その呪縛を逃れるために、思い切って「世間様」と人格化してしまってはどうだろう。でも、それは世間様がお許しにならないかな。

2011-01-16 17:55:44
後藤直樹 @gogofairbear

私たちの社会にあるのは、実は社会ではなく、世間である。西欧に社会契約論はあるけれども、日本には社会契約という意識はない。世間は個人を前提とせずに、個々の構成員の合意に基づかずに所与のものとして自然に存在している。この日本の世間の良識部分を探求すると日本風コモンローになる⁇

2011-01-20 14:44:21
後藤直樹 @gogofairbear

日本風コモンロー?の根本には、正義ではなく、仲間への配慮と思いやりの精神がある。みんな一緒に仲良くすることが求められる。判定は内容によってではなく、足並みを見出したかどうかで年長者が決める。違反者への制裁として村八分がある。したがって人々は察することが要求される。

2011-01-21 06:54:52
後藤直樹 @gogofairbear

配慮と思いやりの精神は、和の精神の名を借りて、みんな同じであれと同調圧力となる。突出は秩序を混乱させる大変いけないことである。平等は、同じであることと意味を変質させる。他人への嫉妬、足を引っ張る行為は、これらにより正当化される。

2011-01-21 07:20:05
後藤直樹 @gogofairbear

何かをするときに和を乱さないようにするために、雰囲気を読むことが要求される。ものごとを決めるためには、根回しが必須であり、討論は避けなければならない。多数決はもってのほかである。多数決の横暴という言葉は、少数者保護のためではなく、和を乱すなという意味で用いられる

2011-01-21 07:50:59
後藤直樹 @gogofairbear

新しいことは出来るだけ避けなければならない。もちろん、変化すること、チャレンジすることは和を乱すことであり、望ましくない。なんとなくズルズルそうなりましたと持っていくのが望ましい。和を乱さず、責任の所在を曖昧にすることが大切。新しいことを始めるなら、前例がありますというのが効果的

2011-01-21 07:59:33
後藤直樹 @gogofairbear

何かを明確にすることは、和を乱す危険性がある。できるだけ曖昧であることが大切。自らの意思を明らかしないこと。話しをするにも、当たり障りがない話題で、内容は曖昧であり、受け取る側が解釈して確定するようなものであることが望ましい。後から、そんなことは言ってないと責任回避ができる。

2011-01-21 08:10:09
後藤直樹 @gogofairbear

前例を踏襲するのは正しい。前例がありますと言えば、それに関わる者の責任は曖昧になくなり、前例がいけなかったのであり、私たちが悪かったのではない、これは災難で仕方なかったのだと、誰も傷つかない。反省のそぶりは必要だが、私のせいではないと、責任を主体的に引き受けずにすむ。

2011-01-21 08:17:22
後藤直樹 @gogofairbear

配慮と思いやりを中核とする日本風のコモンローは、奥が深い。曖昧で原理がなく、その時々の雰囲気で決まっていくからである。これは、近代システムと矛盾した二重構造をなしている。行動するときに、どちらなのか判断に困る。今日は、無礼講だ、上下の隔てなくやろうと言われても、信用できないのだ。

2011-01-21 08:29:18
後藤直樹 @gogofairbear

サンデル教授の白熱教室は、面白かったが、日本社会の現実は、配慮と思いやりの精神が強く、対話よりも察することを強く要求する。

2011-01-21 08:36:31
後藤直樹 @gogofairbear

教育の問題について、私も含めて、精神主義の発言が多いのでは。モラル向上、思いやりの心、やさしさ、みんな仲良くというスローガンが多すぎ。これらは標語にすぎず、容易に向上できるものではない。下手すると、集団による善意の押し付けになる危険性があるし、響きが良いので思考停止の危険がある。

2011-01-22 11:16:05
後藤直樹 @gogofairbear

もっともらしいことが皆んなの口から語られるときほど危ないときはない。善とか正義とか抽象度が高い言葉が用いられるときは、最も危険だ。これらが情熱をもって語られるとき、そこには反論を許さず、相手の存在すら絶対に認めず、葬り去ろうとする魔女狩り的な力が働く。

2011-02-05 20:47:21
後藤直樹 @gogofairbear

偶像崇拝的な心理は、いまだに私たちのなかにある。たとえば、憲法改正。法である以上、現実との齟齬は避けようがなく、いつかは改正の議論をせざるを得ないはずであり、憲法も改正手続を定めている。しかし、現実には、憲法はある種、神聖化、偶像化してしまい、改正議論自体を許さない雰囲気がある。

2011-02-05 23:26:40
後藤直樹 @gogofairbear

戦後、一体なにが変わったのかといろいろ考えている。漫画チックな言い方をすれば、結局、水戸黄門の印籠が、日本国憲法になりかわっただけではないだろうか。

2011-02-05 23:39:38
後藤直樹 @gogofairbear

中根千枝氏の言葉「熱いものにさわって、ジユッといって反射的に飛びのくまでは、それが熱いと説明しても受けつけない。しかし、ジユッといったときの対応は実に巧みで、大けがはしない」。だから、同じパターンを繰り返すのだろう。対処療法的な対応はかりが目につく。

2011-02-06 09:42:01
後藤直樹 @gogofairbear

期待しております。RT @sabalog: 高校生に教えているように見えて実は先生たちに教えたい。これから社会に出ていく若者たちに、自分の権利を守る武器を与えることができるのは先生たちだから。

2011-02-14 08:34:00
後藤直樹 @gogofairbear

法教育の授業でもモラルジレンマ的な問題を取り上げます。弁護士会でやるとほぼ全員参加し議論が盛り上がるのですが、これを学校でやると一部の生徒しか発言しないという問題が起こることがあります。学校では、すでに場が出来上がっていると感じます。いかに安心して話せる場を作るか、それが大切では

2011-02-19 06:46:43
後藤直樹 @gogofairbear

法教育を普及するにはミニマムエッセンスを明らかにする必要がある。まだ、法教育は日本に持ち込まれて10年、発展途上である。民主主義国家というものの、これまで法は所与のものと受け止められてきた。私たちの社会にとって必要な法の役割が何であるのか議論してもらえるとよい。

2011-02-19 07:24:04
後藤直樹 @gogofairbear

法律実務家が法教育をやるときわめて実務的なテーマになりがち。その必要性も否定しないが、発達段階を考慮して、適切な年代に適切なテーマを扱うことが大切。あまり技術的、知識的なものに偏ると、法は日常生活とは無縁で、自分たちには関係がない、関わらないほうがよいと思わせてしまうだろう。

2011-02-19 07:32:59
後藤直樹 @gogofairbear

法教育をめぐる議論が錯綜する一つの原因は、法がどのような役割を果たすべきかについて国民に共通の理解がないからでは。これまで、経済的に豊かな社会を目指してきた。分配するパイが大きくなるので、どうあるべきかを考えずにすんだ。先送りした問題が現れてきた。社会と法の役割を考えなければ。

2011-02-19 08:04:06
後藤直樹 @gogofairbear

法がない社会は理想的な社会だという人がいる。とんでもない。人はそれぞれ考え方、価値観が異なる。法がなければ社会はたちまち大混乱に陥り、暴力がものをいう社会になる。社会は、お互いに我慢する、譲歩することで成り立つ。しかし、法がないと、境界線がなくなり、際限なき譲歩を要求される。

2011-02-19 08:16:43
後藤直樹 @gogofairbear

思いやりが大切。思いやりがあればトラブルなんて起きないという人がいる。なるほど思いやりは大切だが、それだけで万能予防薬のようになんでも回避できるわけもない。しかし、美辞麗句は受けがよい。美辞麗句をあげ、言葉に酔い、現実的な中味を見ずに、リスク管理を避ける傾向があるのでは。

2011-02-19 08:29:32
後藤直樹 @gogofairbear

平等という概念は、日本ではまったく同じということ。違いを認めないところに特徴がある。これは実は、嫉妬心、劣等感と関係している。自分たちと異なる存在を認めると不安になる。みんな同じなら安心。このような空気があらゆるところに漂っている。平等という概念知識の問題ではなく、意識の問題。

2011-02-19 08:42:42