【真田丸】第42回「味方」 時代考証の丸島和洋氏による解説 信繁の書状…うんうん考えて「幸村と称し候」という文面に

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リンク 大河ドラマ『真田丸』 あらすじ 第42回「味方」|大河ドラマ『真田丸』 幸村(堺雅人)は、久しぶりに茶々(竹内結子)との再会を果たす。一方、家康(内野聖陽)は、幸村が大坂方に加わったことに大きな恐れを抱き… 4411
丸島和洋 @kazumaru_cf

日本中世史、戦国時代の研究者です。大河ドラマ「真田丸」時代考証。このアカウントは、告知を目的としたものですので、リプをいただいても御返事はしない場合があります。ご容赦ください。特に、大河ドラマの本編の内容については、このアカウントで呟く予定はありません。適宜、HPでフォローします。

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丸島和洋 @kazumaru_cf

慣例として「前(さきの)」は省略して前官で呼ぶということがありました。たった数日間、右近衛大将に任官した頼朝が死後も幕府の公文書、それも「御成敗式目」で「右大将家」と呼ばれたり、織田信長が「右府」「右大臣家」と呼ばれたのと同様です(信長は太政大臣追号で「相国」にもなりますが)。 twitter.com/kumoikarino/st…

2016-10-23 21:09:23
雲居雁乃 @kumoikarino

@kazumaru_cf 先生にお伺いしたいのですが、今回秀頼公が右大臣と呼ばれてましたが既に辞任してた秀頼が前右府と呼ばれなかったのは単にハッタリなのでしょうか。 総理大臣経験者はその場に現職総理が居ない限り総理と呼ばれる慣習があるそうですが似たような慣習があったのでしょうか。

2016-10-23 20:58:22
丸島和洋 @kazumaru_cf

この件は、NHKスタッフからお尋ねがあり、風俗考証とかなり議論をしまして、この時点ではまだ平服でよいだろうということになりました。 twitter.com/drredwrc/statu…

2016-10-23 21:11:09
former a.k.a. drred @drredwrc

@kazumaru_cf 今夜の放送、最後の軍議の場面で秀頼は軍装では無かったのですが、そんなもんなんですか? #真田丸

2016-10-23 20:36:37
丸島和洋 @kazumaru_cf

ちょっとまだ出先で(在京中)、台本が手許にないので、思い出せた点だけ、簡単に。

2016-10-23 21:15:01
丸島和洋 @kazumaru_cf

大野治長。なかなか苦労をしているような描写です。それもそのはず、関ヶ原後の豊臣家の領国経営は、幕府の協力を得て片桐且元が仕切っていましたから、彼を追い出したら、一から把握しなければなりません。そこに牢人がどんどんやってくるわけですから・・・。

2016-10-23 21:17:42
丸島和洋 @kazumaru_cf

牢人のうち、真田信繁(元秀吉馬廻だが、大名真田昌幸の後継者待遇)、毛利勝永(正しくは吉成、元大名)、長宗我部盛親(元大名)、後藤基次(正しくは正親、元黒田家家老)、明石全登(宇喜多家客分待遇、実質的家老格)の「五人衆」が出そろいました。

2016-10-23 21:23:44
丸島和洋 @kazumaru_cf

あ、すいません。毛利吉政です。しょっちゅう間違える。 twitter.com/kazumaru_cf/st…

2016-10-23 21:30:45
丸島和洋 @kazumaru_cf

この5人のうち、真田・毛利・長宗我部は最初から「大名」待遇とすると決まっていましたが、後藤・明石が引き上げられる形で、「大名」待遇となりました。具体的には、城内に屋敷を与えられた形です。

2016-10-23 21:25:28
丸島和洋 @kazumaru_cf

ですので、「部屋割り」で揉めているのは、「居室」ではなくて、「執務室」の割り当て問題。家族達は、城内の屋敷に。

2016-10-23 21:26:55
丸島和洋 @kazumaru_cf

長宗我部ももちろん国衆あがりなのですが、ここでは「国持ち大名」として豊臣に従属したのか(長宗我部は「侍従」任官)、国衆から国持ちではない小大名(小名)に引き上げられた真田の対比とご理解ください。もっとも、土佐の豊臣期の石高は、真田親子三人の合計とたいした差は無いのですが。

2016-10-23 21:30:08
丸島和洋 @kazumaru_cf

こう最終クールにはいると、下手なツイートがネタバレになりかねないので今までの五割増しで考え考えです。

2016-10-23 21:33:55
丸島和洋 @kazumaru_cf

秀忠と信之。信之が昌幸の件で疎まれていたという話は創作といってよいものなので、あの嬉しそうな微笑みはありがたいお芝居でした。

2016-10-23 21:36:01
丸島和洋 @kazumaru_cf

信之の病気。昌幸が死去する前から体調を崩しています。「中風」だったかな。このため、実際には沼田で療養していました(上田に本拠を移すのは家康死後)。ただ、大坂開戦ということで敢えて江戸に参府し、江戸屋敷で養生。小松殿の消息によると、病気認定で出陣免除の旨の記載があります。

2016-10-23 21:39:55
丸島和洋 @kazumaru_cf

病気で花押が書けない旨記した書状があったりしますので、それが「腕のしびれ」という描写の背景かもしれません。

2016-10-23 21:41:15
丸島和洋 @kazumaru_cf

面白いのは本多忠政・忠朝兄弟。真田家は、取次は本多正信(なので彼が昌幸赦免で奔走したり、信之に昌幸葬儀をしてよいか伺いをたてろとアドバイスしている)で、寄親が本多忠朝。真田信吉・信政は本多忠朝に従って進軍します。

2016-10-23 21:44:07
丸島和洋 @kazumaru_cf

ところが、本多忠朝が信之が病気であることを知ったのは、冬の陣が終わった後なんです。自分の与力である信吉が出陣しているのは、信之が病気になり、秀忠の許可を受けてのものなのですが、なんで信吉が代参しているのか把握していない。

2016-10-23 21:46:54
丸島和洋 @kazumaru_cf

で、後になって「今し方はじめて聞きました。八幡に誓って誰も知らない話です。お加減はいかがですか、ご養生を」みたいな書状を兄弟揃って書き記し、信之の側近で医者でもあった坂巻夕庵に送っています。

2016-10-23 21:48:44
丸島和洋 @kazumaru_cf

なお、急遽出陣することになった信吉は、旗指物を沼田においてきてしまったらしく、小松殿が国許の家老に「どこそこにしまってあるらしいから、急ぎ送って下さい」と指示しています。

2016-10-23 21:50:56
丸島和洋 @kazumaru_cf

信繁の書状。要請を受けたのは「(幸村へは)改名じゃないので、名乗りを改めたという文面を作って下さい」というもので、これでちょっと困りました。実は信幸→信之改名を知らせた書状で、「信之と名乗りを改め申し候」としていたからです(これが当時の表現)。

2016-10-23 21:56:14
丸島和洋 @kazumaru_cf

じゃあどうしようかな、とうんうん考えて「幸村と称し候」という文面に。なお、署名は「信繁(花押)」です。いきなり幸村からにすると誰だか分からないんで。

2016-10-23 21:58:47
丸島和洋 @kazumaru_cf

なお、花押型は一番著名な、グッズとかになっているものです。昌幸死去からおそらく大坂入城まで(冬の陣最中の文書はないので確定とまではいかない)、九度山時代の最後の花押なんですが、大坂に入ったばっかりだし、是非画面に映して欲しい花押だから・・・とこの形でお願いしました。

2016-10-23 22:01:02
丸島和洋 @kazumaru_cf

堀田作兵衛。「信濃の獅子」信之の病気故の不覚を手心と勘違いしての大坂行きという描写になりました。信之という人は、「公と私の明確(ある意味で冷徹)な峻別」にあると思います。関ヶ原では、SNSみたいな自筆書状を交わして諸大名からも友誼が知れ渡っていた石田三成と手を切ります。

2016-10-23 22:12:13
丸島和洋 @kazumaru_cf

大坂の陣でも、この姿勢は同様であったわけで、それが「わしの家臣」作兵衛を含めた、上田からの「義勇兵」(50人程度?)の家族の運命を、左右することになるのです。

2016-10-23 22:14:15
丸島和洋 @kazumaru_cf

ちょっと急ぎの仕事があるので、この辺で。今日、九度山にいってきましたが、凄い観光客でした。昼食をとるのに、30分ほど並びましたかね。蓮華定院も、寺内にかなり精巧な史料の写(中には現物もある)を展示していまして、その説明を供僧さんがされていました。ちょっとどきどき。

2016-10-23 22:16:28