古来日本における女性の地位について

勉強用セルフまとめ ※引き続きお勉強は続けるつもりですが、このまとめはここでいったん完結します。 その後読んだ本はこちら。 https://togetter.com/li/1144604
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↓2016.12.16追記:続きのようなものです。

まとめ 「聖の性」から見る僧侶と淫戒 江戸以前の日本における性のあり方について考えます。すいません長いです。 古来日本における女性の地位について http://togetter.com/li/1042094 の続きのようなそうでもないような。 5780 pv 12 1
まとめ 「中世の遊女」から見る女性の地位について 古来日本における女性の地位について http://togetter.com/li/1042094 「聖の性」から見る僧侶と淫戒 http://togetter.com/li/1058887 の続きです。 16484 pv 63 23 users 6

⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

いま日本の生殖観の歴史をまとめた本を読んでるんですけどなかなか面白いです。性器崇拝、穢れ思想、女性蔑視がいつ始まったのかとか興味深い。男女別姓が実は男性中心思想だとか。眉に唾つけながら読んでる。

2016-10-20 23:06:55
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

たとえば、縄文時代の日本人は、性交と出産の関係を知らなかった。子作りは女性だけの仕事と考え、だからこそ女性を生産の象徴として崇拝した。 一方で勃起した男根にも神秘の力が宿るとして石棒を作り崇めた。石棒は生産ではなく蝗などの害悪を払う破邪の象徴である、とか。

2016-10-20 23:13:44
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

土偶は女性像であり、乳房や陰部などの性器を誇張して表現しているものが多い。これはキリスト教以前のヨーロッパにも見られる女神像の特徴でもある。 つまり性的特徴を強調する表現は数万年の歴史があるわけで、今さら何を、という感もある。

2016-10-20 23:16:46

ユーラシア大陸(西はフランスから東はロシア東部まで)では「ビーナス」と呼ばれる女性像が3万5000年ほど前の地層から出土しています。これらは胸や腰部が非常に大きく作られています。
ブルガリアで出土した「パザルジクの貴婦人(または座像)」が紀元前4500年頃、後述するキュクラデス人形が紀元前3000年頃です。
縄文時代における女性型と思われる土偶の出土は紀元前6000年頃とされています。したがって日本に限って言えば「8000年くらい前からある表現」ということになります。


⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

日本人は性をどう考えてきたか amazon.co.jp/dp/4540970771/ 先日触れたこの本をもとに、日本における性表現の歴史についてちょっと整理してみる。

2016-10-22 22:08:43
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

とりあえず近年のような、性的なものをよくないもの、隠すべきものとはっきり意識が変わったポイントとして、著者は「解体新書」を挙げている。この本で性器を陰器と訳し、関連部位にも「陰」の字が多くみられる。

2016-10-22 22:12:59

×:意識が変わったポイント
〇:意識が変わったことを示すポイント

後日注:「陰」という文字は陰陽思想から来ていると言われています。陰陽思想では男性が陽、女性が陰とされていますが、解体新書では「陰嚢(つまり玉袋)」という訳語もあり、男女関係なく性器全体を陰としています。

⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

古代日本人は女性性器に対し敬意と愛着を抱いていた。日本書紀や古事記では男女性器をともに「ト」と呼ぶが、女性器には特に「ミ」や「ホ」をつけて「ホト」や「ミホト」としていた。「ミ」は尊敬の接頭語、「ホ」は秀でるなどの意味で、良いものの意味である。

2016-10-22 22:15:31
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

江戸時代になっても「陽根」、「玉門」であった。明るい「陽」と輝く「玉」である。しかし解体新書では「陰」になり、明治八年に千葉繁が「造化機論」を訳出した時には、陰部、陰茎、陰唇、会陰など片っ端から「陰」をつけ、この訳語は現在でも医学用語に多く残っている。

2016-10-22 22:19:06
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

男根崇拝の奇祭として有名なかなまら祭り、男女交合の儀があるおんだ祭りなど、性信仰の名残が現在に伝わる国は、日本のほかにはインド、ネパール、チベットなど数えるほどしかない。 これは日本が農耕社会であり、豊穣祈願祭が農民の娯楽として重要だったからである。

2016-10-22 22:26:44
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

また、日本に伝わった仏教は大乗仏教であり、より多くの人々に広めるため、その教えはかなり寛大であった。出家者たちは女性を修行の妨げになるとし、女犯を禁忌としたが、密教は男女の交わりを正常なる菩薩の境地と教えた。多くの為政者も統治のためかこれら男女交合の神事を認めていた。

2016-10-22 22:29:54

×:正常なる菩薩の境地
〇:清浄なる菩薩の境地

⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

応仁の乱以前まではこうした祈年祭が公式行事として行われていたが、徳川幕府は儒教道徳を政治の基本としたため、公式行事としては復活しなかった。それでも民間行事として根強く残っている。

2016-10-22 22:32:34
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

結論としては、やはり徳川幕府が推し進めた儒教道徳、朱子学の意識がなんだかんだ言って明治維新後も生き残り、現在に至るのかなあという印象。 江戸時代までは上は上で厳しくやっとくれ、俺らは楽しくやるからよ、と分断されていたのが、維新で混じりあった結果上の方の人の意識に染まったのかなと。

2016-10-22 22:37:20

「大正デモクラシーの頃までは日本にも身分制度の名残のようなものは残っていた」という指摘を頂いています。

⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

とりあえず以上です。 途中式をかなり端折っているのですが、本書ではかなり丁寧に文献を積み上げてます。考古学者や歴史学者とはまた違った視点で面白いわけです。

2016-10-22 22:37:44

⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

日本人は性をどう考えてきたか amazon.co.jp/dp/4540970771/ 昨日に引き続きこの本から、日本における女性差別、女性蔑視の歴史を辿ってみます。

2016-10-23 21:41:47
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

古代日本人は、死の穢れ(死穢)は家族や血縁者を汚染すると信じ、死を黒不浄と呼んで恐れた。『魏志』倭人伝に、倭人は死者が出ると、その遺族は十数日喪に服したのち水浴して穢れを清める習俗があると書いてある。ただ、この頃には血を穢れとする思想はまだなかった。

2016-10-23 21:48:25
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

もともと農耕社会であった日本には女性崇拝の思想があり、シャーマン的女性が首長をつとめることもあった。一方で国を治めるための武力、統率力として男性の力も必要としていた。卑弥呼と弟に見られる「姫彦制」は他の国でも多く採用されていた。

2016-10-23 21:50:30
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