「聖の性」から見る僧侶と淫戒

江戸以前の日本における性のあり方について考えます。すいません長いです。 古来日本における女性の地位について http://togetter.com/li/1042094 の続きのようなそうでもないような。
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波島想太 @ele_cat_namy

【本棚登録】『女犯―聖の性』石田 瑞麿 booklog.jp/item/1/4480842… #booklog

2016-11-28 19:12:05
波島想太 @ele_cat_namy

さて、この本から、今日は古代の聖職者の性についてメモっておきます。 twitter.com/ele_cat_namy/s…

2016-11-29 21:33:19
波島想太 @ele_cat_namy

日本における出家制度は584年、蘇我馬子によって始められたといわれている。詳細は長くなるので後日追記することとし、ここでは割愛する。仏に使える身である出家者(僧尼)は戒律を守るものとされ、出家に向けて修行中の身である沙弥(さみ)についても同様の戒律があると考えてよい。

2016-11-29 21:34:04
波島想太 @ele_cat_namy

こうした僧尼、沙弥は高潔なる人格を求められるものであったが、実際はどうであったか(特に性に関わる部分について)というのが本書のテーマである。

2016-11-29 21:34:23
波島想太 @ele_cat_namy

僧尼の四大禁忌の婬、盗、殺、妄に挙げられるうち婬戒は男女相互に適用され、「女三男二」により淫を犯したときは、再犯以後は僧籍が剥奪され、追放される。「女三男二」とは、男は口と肛門、女は加えて性器をさし、古代よりアナルセックスが行われていたことがうかがわれる。

2016-11-29 21:34:46
波島想太 @ele_cat_namy

日々淫蕩にふけるとまではいかずとも、子を為すということは少なくともその数だけ淫を犯したということになるのだが、妻子ある僧は古代より少なくなかった。

2016-11-29 21:35:12
波島想太 @ele_cat_namy

「日本霊異記」には「妻子のある大僧」が登場し、その年代はおよそ700年頃と推定される。この大僧が結婚し子を持ったのが出家前か後かはわからないが、本書では「偉大な僧」という意味で大僧と呼称しており、妻子がいても尊敬の対象になるという認識がうかがえる。

2016-11-29 21:35:30
波島想太 @ele_cat_namy

「扶桑略記抄」には、東大寺の明一という僧が晩年「後坊を置」いて女を囲ったとされるが、それでも周囲の尊敬は絶えなかったという。また819年に没した元興寺の慈宝も、晩年男女の寝室を設け、そのこと自体は残念がられたが、それで全ての徳が損なわれたわけではなかったらしい。

2016-11-29 21:35:49
波島想太 @ele_cat_namy

とはいえ、租税を免れるために僧になったような者もいて、中には格好だけ僧のいでたちをして、全く俗人と変わらない生活を過ごす者もいた。庶民からすれば僧などその程度のものであるという認識があり、また寺に対し引き締めを求める声も多くあった。

2016-11-29 21:36:02
波島想太 @ele_cat_namy

寺も行政もあの手この手で取り締まろうとはしたが、本能的な欲求は絶えることがなく、結局はいたちごっこで、目に余るものを捕らえて一罰百戒とするのが精一杯であった。823年に興福寺などの僧が「婬犯」のかどで遠江に流されたが、他に目立つ処罰の事例は少ない。

2016-11-29 21:36:17
波島想太 @ele_cat_namy

9世紀後半には授戒制度を見直し、きちんとした修行を経て、試験に合格した者のみ出家できるよう改めるなどの動きがあった。しかし「女人が縫った服を着ない僧がいる」なんて事が賞賛されてしまうほど、多くの僧は相変わらずの有様であった。

2016-11-29 21:36:31
波島想太 @ele_cat_namy

本書では数多くの破戒例が挙げられているが、妻子を持つ、出家の際に妻子を捨てない、程度のことであれば、現代の我々からすればさほどの問題ではないわけで、それ以上のものをいくつか列記してみる。創作もあると思われるが、本書に倣い特に区別はしないこととする。

2016-11-29 21:37:00
波島想太 @ele_cat_namy

鎮西の安楽寺の僧順源は、(妻の死後?)娘を妻にしたといわれる。弟子に諌められると、過去にも姉妹や娘を妻にした人はいるし、ましてや日本は(聖地である西方からすれば)雲外の境であって、ことさら取り繕う必要などないと開き直ったという。

2016-11-29 21:37:24
波島想太 @ele_cat_namy

「僧妙達蘇生注記」(1125年頃)によると、下総国の仁高は妻帯の上、寺内に別の女を囲っていたために地獄へ堕ち大蛇となったという話が伝わる。

2016-11-29 21:37:40
波島想太 @ele_cat_namy

「古今著聞集」には、妻のある僧が遊女のもとへ通っていたある夜、遊女と交わっているのに妻のような心地がしたため驚いて見てみると、大きな蛇が僧のモノに噛み付いていたという話がある。この大蛇を殺して川に捨てると、妻は病んでやがて死んでしまったという。

2016-11-29 21:37:52
波島想太 @ele_cat_namy

また、物詣での際に見た尼に一目惚れした僧が、女装して尼としてその寺に雇われ、甲斐甲斐しく働いて信頼を得た。そして三年目の正月、元旦から七日間念仏の勤めを終えて疲れきった尼が寝入ると、女装尼はついに「尼のまたをひろげてはさま」った。

2016-11-29 21:38:06
波島想太 @ele_cat_namy

尼は驚いて飛び起き、一度は逃げるも、やがて打ち解け、改めて交わってついには夫婦となった(上連雀三平の漫画みたいな展開である)。めでたし、めでたしとでもいいたげな書きぶりに、めでたしじゃねえだろと著者はツッコミを入れている。

2016-11-29 21:38:19
波島想太 @ele_cat_namy

真言を極め、内外の文に通じ、藤原良房が病の際には祈祷にも召された湛慶について「今昔物語」にはこうある。湛慶は不動尊を篤く信じてきたが、その不動尊が夢に現れ、この場所でこの娘と夫婦になると告げられた。仏道に背くことになるこのお告げを湛慶はひどく嘆いた。

2016-11-29 21:39:32
波島想太 @ele_cat_namy

そのため湛慶はお告げの場所に行き、お告げどおりの姿をした十歳ばかりの端正な少女を発見し、人のいない隙を見てこの少女の頸をかき切ることで禍の根を断てたと安心して京に戻るが、やがて思いがけず女と交わることになる。その女の頸には大きな傷跡があった。まさに自分が殺したはずの少女だった。

2016-11-29 21:39:48
波島想太 @ele_cat_namy

湛慶は己の行いを悔いて女を哀れに思い、不動尊の導きの貴いことに泣いて経緯を話し、女も哀れに思ってやがて二人は夫婦になったという。湛慶は破戒僧となってしまったが、良房はその才能を惜しみ、還俗させて官人に取り立てた。殺戒よりも淫戒を重いと考えたのだろうか。

2016-11-29 21:40:03
波島想太 @ele_cat_namy

「今昔物語」には、狩人の妻を強姦した僧の話もある。夫の留守中に来訪した僧が無病息災、夫婦円満を招く儀式があると妻を山中に連れ出し、刀で脅して藪の中で暴行した。ざわめく藪を動物の気配と感じた狩人が矢を放つと、この僧を射抜き、すぐに息絶えたという。

2016-11-29 21:40:16
波島想太 @ele_cat_namy

「百錬抄」には、一人の女が三人の男と密通していて、その内の二人が図ってもう一人の男を殺害したとある。殺害犯のうち一人は流罪になったが、もう一人の僧延済は罪に問われなかった。ここでも僧の密通など茶飯事すぎて問題にされないという世相がうかがえる。

2016-11-29 21:40:31
波島想太 @ele_cat_namy

物語の世界は真偽が定かではないが、僧の女犯が格好の題材であったことは間違いない。著者も「この種の話の種は尽きない。いくら拾ってもきりがない」としている。実際本書を読むとあまりに多くてびっくりする。

2016-11-29 21:40:48
波島想太 @ele_cat_namy

「ふるき物語」では、鞍馬の房主がある姫君の乳母に「房主の言う通りにすればめでたく栄える」などと嘘のお告げをし、真に受けた乳母が姫君を法師の担ぐ唐櫃に入れて房主のもとへ向かう途中、「二位の中将」がこの姫と子牛を入れ替え、姫を迎えた。

2016-11-29 21:41:01
波島想太 @ele_cat_namy

それに気付かない法師たちがそのまま唐櫃を鞍馬の房に運び入れて、「犢(こうし)走出て屎(くそ)ひりちらし、障子皆ふみやぶりて散々の事なりけり」というコントみたいな結末である。

2016-11-29 21:41:15