離婚の歴史から見る女性の地位について

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⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

【本棚登録】『日本中世女性史論』田端 泰子 booklog.jp/item/1/4827311… #booklog

2016-12-12 22:17:04
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

日本の離婚の歴史から、男女の立場の違いを確認してみようと思う。20連投くらい。

2016-12-12 22:17:21

▼古代

⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

古代律令制にも離婚に関する規定があり、夫から離婚できる条件が7つ、妻からの離婚条件が3つ挙げられている。夫からの理由は子供のないこと、淫泆(浮気?)、舅姑に仕えないこと、口舌、盗竊、妬忌、悪疾とある。ただし妻が舅姑の喪をつとめおえた時、帰る家がない時などは離婚できないとしている。

2016-12-12 22:17:44
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

妻からの理由は結婚3ヶ月以内に結婚式を挙げない時、夫が失踪して一定期間帰らない時、夫が罪を犯したときで時。これらが妻からはどうしようもない不可抗力であるのに対し、夫からの条件は悪口や嫉妬など、どうとでも解釈できる都合のよさがある。自分の意思で離婚できるのは夫だけという扱いである。

2016-12-12 22:17:56
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

ただ、古代日本では妻は結婚してからも自分の財産(正確には自分の家の、父親の財産)を持ち、離婚すれば妻の財産(連れ子や奴婢も含む)も返さなければならなかった。そのため夫婦に父母や祖父母がいれば、離婚にはその許可が必要であった。

2016-12-12 22:18:12
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

ただ実際には古代の結婚は通い婚であり、離婚を宣告するまでもなく、「通わなくなる」だけで関係は終わる。夫の任地替えが離婚の原因になることもあった。

2016-12-12 22:18:25
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

妻の方が婚姻の場(家)を出て行ってしまうこともあり、また財産も男女それぞれが保有しているわけだから、制度はさておき、実際には離婚における男女の立場は対等と言える。ただ、男は何度でも再婚できるが、女はせいぜい一度だけという見方があり、二回離婚したら尼になるのが通例だった。

2016-12-12 22:18:39
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

特に貴族となると、父親が亡くなると女性は自分の身の回りの事を自分でしなければなくなり、男性はそうした女性を忌避する傾向があったようで、自身の離婚よりも父親の死亡の方がより重要な要素であった。

2016-12-12 22:18:53

鎌倉期

⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

鎌倉時代になると、妻が夫の家に入る一夫一婦制が基本となる。特に武士層では婚姻は家と家とのつながりであり、幕府への勤めも個人ではなく家単位で果たすから、平安期の曖昧な結婚も離婚も許されなくなった。夫の死に際しては所領を妻が相続することもあり、法的にも婚姻関係を確定する必要があった。

2016-12-12 22:19:05
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

制度としては「御成敗式目」に、妻が罪を犯した場合、子供ができない場合、妻が浮気をした場合、舅姑に仕えない場合、悪口を言う場合に離婚できるとある。ただ子供ができないのは不可抗力で、これを理由にする場合は和議離婚としたし、浮気、悪口に関しても実際に適用された例はほとんどないとされる。

2016-12-12 22:19:16
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

庶民層では婚姻後男女どちらの家に入ることもあったが、離婚は「夫が去る」のが普通だった。とはいえ離婚したい女性はただ耐えるばかりではなく、逃亡や家出をして、夫の行状を地頭に訴え、裁判を受けることができた。夫の無情が認められると、夫が村から追われ、妻が屋敷をもらえることもあった。

2016-12-12 22:19:27
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

男性が自由意志で離婚できるのに対して、女性に訴える必要があったのは不平等ではあったが、不可抗力しか認められない律令よりは実情に沿ったものとなっていた。また離婚に際して、女性は家中のものを持っていくことが許された。離婚後路頭に迷いやすい女性の当面の生活を支えるためのものであろう。

2016-12-12 22:19:41

室町期

⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

室町時代になると、たとえば狂言で夫が妻に「暇をつかわす」、妻は「暇を貰う」と表現される。基本的には鎌倉期同様夫が主体となるが、若干の違いも生じている。

2016-12-12 22:19:55
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

室町の教訓書「世鏡抄」によると、妻の第一の役割は子を産むこと、第二は世帯を管理し夫を慰めることとある。したがって子を産めない、家計の管理ができない、嫉妬や疑り深い妻とは離縁すべきというのである。

2016-12-12 22:20:09
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

一方で夫に対しては、妻に非がないのに武芸や諸芸をたしなまず、家人を省みず、所領まで失うような無能であれば、暇を乞うて再婚するのがよいとしている。夫婦ともに役割があり、相手がそれを果たさないなら離婚は残念だが当然という見方である。

2016-12-12 22:20:24
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

さらに夫が離婚を認めない場合は、尼になって夫に恥をかかせればよいとしている。夫が健在なのに妻が尼になってしまうというのは、当時の感覚では非常に恥ずべき事態であった。この程度の「ささやかな抵抗」くらいしか認められないのは相変わらず理不尽ではある。

2016-12-12 22:20:41
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

この時期は武家なら女子でも婿を取ることで家を継げたから、子は男女いずれでもよかった。それでも女子は所領相続の面でも不利があったから、男子が望ましいとされ、また地位としても男が主で女が従という意識が強くなってきている。

2016-12-12 22:20:52
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

室町時代でも戦国期になると「離縁状」が登場し、夫婦喧嘩でどちらかが家から出ても、離縁状がなければ公的に離婚とは認められなかった。仮に別居状態となっても、離縁状なしに再婚すると罪になったらしい。

2016-12-12 22:21:05

江戸期

⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

江戸時代のいわゆる「三行半」は男性が出すものとされるが、女性が出ていった場合でも届け出は男性が申請しなければならないということで、離婚を切り出すのは男女どちらからでもできた。

2016-12-12 22:22:26
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

以上より、特に鎌倉期以降、家父長制が強まり男女間の格差が広がっていくことが不公平な離縁制度にも見て取れるが、これが領主と郎党という間柄であれば郎党の男よりも女主人の方が格上であり、男女差よりも身分による格差の方がより強かったとは言える。

2016-12-12 22:22:50
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

という具合です。連投失礼しました。

2016-12-12 22:23:06