Carlos Rodriguez (@fever7777) による 「戦後政治史」【第一章】日本の独立前夜(1945~48)東久邇宮内閣から芦田内閣まで

Carlos Rodriguez (@fever7777) による 「戦後政治史」【第一章】日本の独立前夜(1945~48)東久邇宮内閣から芦田内閣まで をトゥギャりました♪ 学校の授業では習わない現代史ですね!注目です! 【参考】Carlos Rodriguezによる「歴史【総論】」http://togetter.com/li/103350 【参考】Carlos Rodriguezによる「歴史【各論】」http://togetter.com/li/103354
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fever7777 @fever7777

これから「戦後政治史」を何回かに分けてツイートして行きます。戦後誕生した内閣毎に極私的立場から振り返るとしましょう。いつ終了するか未定ですが、時代ごとにいくつかの章に分けたいと思います。尚、文中は敬称を一切省略します。

2011-03-05 15:38:49
fever7777 @fever7777

【第一章】日本の独立前夜(1945~48) 東久邇宮内閣から芦田内閣まで

2011-03-05 15:39:18
fever7777 @fever7777

1. 東久邇宮稔彦王内閣(1945) 太平洋戦争後の敗戦処理を行うべく発足した内閣である。東久邇は皇族かつ現役陸軍大将であり、軍の暴走を抑えて政府秩序を再構築し、国民を統合して荒廃した国土を復興するためには、皇族が政府の先頭に立って政治を行うしかないという考えから成立した。

2011-03-05 15:39:33
fever7777 @fever7777

2. 東久邇は「国体護持」と「一億総懺悔」を敗戦処理と戦後復興に向けた二大方針とした。しかし発足間もないGHQからの指令を実行できず、僅か54日間で総辞職することになる。日本の戦後政治史において、特に記録に残る仕事をした訳ではない。

2011-03-05 15:40:03
fever7777 @fever7777

3. 幣原喜重郎内閣(1945~46) 幣原は外交官であった。同じ外交官であった吉田茂と昭和天皇の説得により、首相に就任。親英米派としての独自のパイプで活躍、日本国憲法とりわけ第9条の誕生に大きな役割を果たした。憲法草案を作成したが、保守的との理由でGHQに拒否された。

2011-03-05 15:40:34
fever7777 @fever7777

4. 幣原は戦時中、国際協調路線を強調し1920年代の「幣原外交」を推進した。ただ欧米とは強調、中国へは権益擁護を図るなど、ダブルスタンダードの外交を展開した。吉田茂が裏で操った政権であったとの評価もある。この内閣も大きな歴史的役割を背負うことはなかった。

2011-03-05 15:41:03
fever7777 @fever7777

5. 第一次吉田茂内閣(1946~47) 大日本帝国憲法に基づく天皇の組閣大命による最後の内閣である。吉田茂は外交官出身で、日本の戦後政治史上「最強の宰相」とも呼ばれる。最強かどうかは別として、吉田茂は三木武夫、田中角栄と並ぶ超大物政治家であったことは事実であると思う。

2011-03-05 15:41:33
fever7777 @fever7777

6. 吉田が首相になれたのは、鳩山一郎と三木武吉のお陰である。当初は1946年4月に行われた総選挙で第一党となった日本自由党の鳩山一郎総裁が組閣の大命を受ける筈であった。しかし、就任を目前にして鳩山が公職追放となったため、三木武吉の党内説得で吉田に総理の椅子が回ってきたのである。

2011-03-05 15:42:03
fever7777 @fever7777

7. それにしても天晴れであったのは三木武吉である。三木武吉は鳩山一郎の最側近として、吉田茂と常に対峙してきた。しかし鳩山の公職追放(クーデターか?)で、政敵である吉田に日本自由党総裁の座を譲るという苦渋の選択をし、日本の将来のために動いた。三木武吉は単なる寝業師ではない。

2011-03-05 15:42:33
fever7777 @fever7777

8. しかしこの内閣は短命で終る。日本国憲法の成立、第2次農地改革などの重要課題を遂行するも、食料状況の深刻化、労働攻勢の激化により厳しい政権運営を迫られた。1947年4月の総選挙で日本社会党が第一党となったため、両与党は下野し、総辞職した。

2011-03-05 15:43:04
fever7777 @fever7777

9. 片山哲内閣(1947~48) 日本国憲法下で国会の指名を受け組閣を行った最初の内閣であり、最初の社会党首班の内閣である。4党による連立政権であり、発足時に閣僚が決まらないなど、政権基盤は極めて不安定な状態であった。

2011-03-05 15:43:34
fever7777 @fever7777

10. 片山は、国家公務員法制定、警察改革、内務省解体、失業保険、民法や刑法の改正など、次々と新たな政策を打っていった。その意味では短命でも、一応の成果を残したものと思われる。しかしながら多党連立政権の宿命か、内部対立、とくに社会党の内紛によって政権は崩壊を迎える。

2011-03-05 15:44:03
fever7777 @fever7777

11. 芦田均内閣(1948) 片山内閣の総辞職に伴い、引き続き民主党・日本社会党・国民協同党を与党として発足した。芦田はリベラリストであり、戦時中に翼賛政治を批判、終戦前後での活躍が目覚ましかった。内閣発足時にGHQ民政局は、中道連立政権である芦田内閣を強く支持した。

2011-03-05 15:44:34
fever7777 @fever7777

12. 短命でありながら、中小企業庁設置法、石炭庁設置法、国家行政組織法、建設省設置法、海上保安庁法、水産庁設置法、教育委員会法、日本学術会議法、地方財政法、検察審査会法、軽犯罪法、警察官職務執行法、経済調査庁法など重要法案を次々と成立させたことは、特筆に値する。

2011-03-05 15:45:03
fever7777 @fever7777

13. しかし芦田内閣は、昭和電工疑獄事件によって退陣を余儀なくされる。昭電事件はおそらくGHQ反民政局派によるクーデターだろう。昭電事件後、GHQ民政局は国民協同党委員長である三木武夫に首相就任を打診している。三木は「憲政の常道」を理由に、就任を断る。天晴れである。

2011-03-05 15:45:34
fever7777 @fever7777

14. ここまでが戦後の混乱した政治状況である。国民は混乱に辟易し段々と「強いリーダー=カリスマ」を求めるようになる。そこで再び脚光を浴びるのが吉田茂である。次回は、日本の独立と吉田vs鳩山・三木武吉の権力闘争について記す。三木武夫、田中角栄にも触れるかもしれない。(この章終了)

2011-03-05 15:46:04