もし、親子間にパワーゲームが存在した家庭で育ったら…

思いやりの心、感謝する心を持てない人が何故そうなるに至ったかをp_moon氏が分析する
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Aiko Ohosato @p_moon

昨日の孫さんのツイートを見て、生かせる人っていうのは感謝を感じる才能に恵まれてる人なんだなと再確認した。状況がどんなであっても、おかげさまで、と心から言えていると 本当に楽で楽しい。

2011-05-17 08:21:15
Aiko Ohosato @p_moon

つい先日、友人Kがある人の挙動に対する感想として「こんなに思いやりが持てない心情でいるって、きっと辛いでしょうね」と言った。同じことの裏返しだなぁと感じる。

2011-05-17 08:25:37
Aiko Ohosato @p_moon

思いやりも感謝も、自分の位置を広角で捉えられないと見えないのだ。逆に言うと、それができない意識は、世の中のほとんどを敵に回してしまう。みんな敵ばかりの世界では 思い通りにならないことの全てが きっと自分に対する攻撃のように感じられることだろう。

2011-05-17 08:35:43
Aiko Ohosato @p_moon

この、広角の視野を持つことを、心を開く、と言うのだと思う。開かれた心は、そこにいる他者が、自分と同じ 心と思考と事情を抱えた、一人の人間であることがわかる。敵だとか味方だとか、自分の側の都合でラベルを貼って安心するのとは、正反対の受け取り方をする。

2011-05-17 08:44:49
Aiko Ohosato @p_moon

自分の思ったこと、感情や思考を なんでも喋るというのが、必ずしも「心を開いた」状態から発するものではない。という点には注意が必要だ。確かに、オープンな人は ベースにある安心感から 誰が相手でもフレンドリーな態度を持ち続けていられる場合が多い。

2011-05-17 08:56:21
Aiko Ohosato @p_moon

しかし、まるっきり相手が見えていない人というのも、不用意に感情を垂れ流すことが多いからだ。そして、そうすることによって自分の評判を落とし、環境はますます悪化していく。

2011-05-17 08:56:37
Aiko Ohosato @p_moon

その結論として、自分自身が自分の敵となる。自分の言う言葉、自分の感じる感情の、何が相手を動かし、状況が自分の思い通りになったりならなかったりするのかが、まるでわからないからだ。それはきっと暗闇の中で動き回るような、不安と不信感に満ちた、たいへん生きづらい状況だろうなと思う。

2011-05-17 09:26:32
Aiko Ohosato @p_moon

そういえば、昨年暮れから周囲でしばしば話題になってる「自分の言動に責任をもつ」という話も、この、視界が広角かどうかと関わりがあるなと思う。つまり、思いやり、感謝の話と同じサイコロの違う面、ということだ。

2011-05-17 09:50:44
Aiko Ohosato @p_moon

そうなってくると、育ち方という視点も出てきそうな気がする。親や教師がどういう態度で接してきたかということだ。

2011-05-17 09:52:31
Aiko Ohosato @p_moon

教育の場でよく言われることで、親は真剣に言わなくちゃいけない、というのがある。たとえば、子どもが食事に文句を言ったり、出先で駄々をこねたりしたとき、親が、「それなら食べなくてもいい」「じゃあ一人で帰りなさい」と言う場面っていうのがある。スーパーなんかでもよく見かける。

2011-05-17 10:02:43
Aiko Ohosato @p_moon

でも「食べなくていい」と言いながら、心の中で(折角作ったのだから食べてほしい)と思っていたり、(子どもには食事をさせなくてはいけない)というビリーフがあったりすると、その言葉は子どもにはまっすぐ届かない。子どもは、言葉より、なんとか食べさせようとしている意図の方に反応するからだ。

2011-05-17 10:06:12
Aiko Ohosato @p_moon

こういうダブルバインドな親に育てられ、[これが普通のコミュニケーション]と学習すると、その子自身も、ダブルバインドなコミュニケーションを無意識に取るようになる。同時に、他者もそうしているだろうと思うため、言葉をまっすぐ受け取ることをせず、なんとか相手の真意を計ろうと探る癖がつく。

2011-05-17 10:13:17
Aiko Ohosato @p_moon

そうした心の働かせ方を通じて、他人にも感情があることや、言葉にならない部分にも思いがあることを知り、言葉と感情のバランスを取るようなコミュニケーションを学ぶことができる人も少なくはない。しかし、不幸にしてうまく学べなかったというケースも、現実に数多く存在しているように思う。

2011-05-17 10:34:27
Aiko Ohosato @p_moon

たとえば親子関係での綱引きでずっと勝者でいたような場合だ。駄々をこねればなんとかなる、文句を言えば相手が従う、というパターンがしみ込んでしまい、そうならなかったとき、怒りの感情と多大なストレスを抱えるようになる。物事をパワーゲームとして受け取りやすくなり、過剰に攻撃的になる。

2011-05-17 10:39:06
Aiko Ohosato @p_moon

物事をパワーゲームとして受け取る、逆のパターンもある。常に敗者の立場で育ってきたような場合だ。彼らは、怒っている人を見ると、反射的に謝る、機嫌を取るといった反応を示す。怒っていた相手が機嫌を直したのを見ると、自分の有能感が高まることが多いので、勝者と敗者はしばしば依存関係にある。

2011-05-17 10:45:21
Aiko Ohosato @p_moon

しかし、パワーゲームである以上、発言に責任は存在しない。あるのは勝ったか負けたかという結果だけであり、その勝負を支配しているのは、自分が満足しているか(思い通りになっているか/相手を機嫌よくさせているか)どうかという個人的な感情レベルでの気圧配置であり、極めて焦点が狭い。

2011-05-17 10:58:48
Aiko Ohosato @p_moon

視点を広角に保つとき、発言することは、それによる他者への影響を自分で引き受けるということと同等になる。「こんなご飯いや!」と駄々をこねるのは、食事を用意した人の労力、必要な素材を揃えるための資金とそれを作る労働、さらに素材を作った人たちの労苦を否定することに繋がることがわかるのだ

2011-05-17 11:06:26
Aiko Ohosato @p_moon

そうであれば、言葉は自然と重みをもつものとなり、自分や他人の発言に、よく注意を払うようになる。同時に、自分の感情を安定させるために発言したり、そうするよう他人に要求するのは意味のないことだと理解できる。

2011-05-17 11:15:55
Aiko Ohosato @p_moon

感情は自分でコントロールすればよく、無闇に言葉として垂れ流せば、その責任は自分で背負い込むことになるからだ。「それなら食べなくていい」と言った親が、次の瞬間、自分の食事をゴミ箱に捨てるのを見たとき、「いらない」という言葉がどういう意味をもつものなのか、子どもは知ることになる。

2011-05-17 11:18:40
Aiko Ohosato @p_moon

けれども、その場合、自分は自分の敵にはならない。世界も、自分の敵にはならない。「いらない」と言えば「いらない」という言葉通りの結果が起こるなら、「いる」ときに「いらない」と言わなければいいと理解するのは難しくない。要求を通すために怒ってみせたり、機嫌を取ったりする必要はないのだ。

2011-05-17 11:44:45
Aiko Ohosato @p_moon

相手を傷つけないための技法や、話をわかりやすくするためのテクニックといったものは、このベースがあって初めて有効となる。発言に責任をもつならば、「いる」のか「いらない」のか、発言する前に自分の気持ちが定まっていることが当然の前提となり、その定まった内容がコンテンツとなるからだ。

2011-05-17 11:52:11
Aiko Ohosato @p_moon

一方、パワーゲームにコンテンツは存在しない。結果として自分が勝ったか負けたか(思い通りになったか/相手を機嫌良くさせられたか)にしか興味がないからだ。自分の言葉が具現化する経験が少ないため、言葉には存在感がなく、発言を翻す、隠す、嘘をつくという行為も平然と行われる。

2011-05-17 12:09:09
Aiko Ohosato @p_moon

興味深いのは、パワーゲームのパターンをもっていると言葉が多くなりやすいという現象だ。闇の中で的を射ろうと無闇に矢を放っているようにも見える。ただし、この場合の「的」とは、世界の方から自分の欲求を勝手に満たしてくれることを指しており、自分自身の発言が具現化することは入っていない。

2011-05-17 12:52:26
Aiko Ohosato @p_moon

更に興味深いのは、その的自体を、自分自身でもどんなものだかイメージできずにいる場合が少なくないらしいことだ。ちょっと思い通りにならないことがあると大げさに怒る、泣く、恨む、卑下する・・。刺激に対しバランスを欠く対応が現れるとき、闇の中で矢を放つタイミングを待っていたのだなと感じる

2011-05-17 12:53:04
Aiko Ohosato @p_moon

しかし、的は先ほども書いた通り具体性を欠いている。そういった対応の成果として、「主張」が、言葉通りの結果を現わしそうになると、言った本人はパニックを来す。「いらない」と言ったものが取り上げられたり、「いる」と言ったものが与えられたりすると、どうしたらいいかわからなくなってしまう。

2011-05-17 13:31:24