#sn2011 アメリカ横断をして思ったこと2つ。自分は何者でもないな、と思った。京都大学ということにアイデンティティを感じていたが、アメリカ人と話をしていると京都大学をしている人なんて一人もいない。京都大学の近藤であるというのは世界では何の意味もない。 by 近藤社長
2011-05-29 13:10:06近藤氏「京大がidentityのひとつだったが、往復のチケットと自転車だけ持ってアメリカへ渡ったところで、自分がi am Junya Kondo 以外の何者でもないことが分かった #sn2011 #sn2011s1
2011-05-29 13:10:08近藤氏「同時に、”何にでもなれる”と感じた。例えば道ばたのアイスクリーム屋にでもなれる。数多ある職業のなかから、自分が本気でやりたいと思うものには何にでもなれると感じた #sn2011 #sn2011s1
2011-05-29 13:11:06#sn2011 もう1つはなんにでもなれるということ。自分が本気でなれると思えばなれるし、自分は本気でそれを考えなければならないということを思った。まだ紙のリクナビなどを見ながら、こんな狭いところで決めていいのか、などと感じた。 by 近藤社長
2011-05-29 13:11:30はてな近藤さん:20歳の頃自転車でアメリカを横断。広い世界で自分の小ささを認識すると同時に、今から何でもできる、何かを選んで成し遂げたいと感じた。 #sn2011
2011-05-29 13:12:16はてな近藤社長「『まだ自分は何の意味もない、何者でもない』と感じるのと同時に、『まだ自分は何者にでもなれる』と、学生時代のアメリカ旅行で感じた」 #SN2011
2011-05-29 13:12:28#sn2011 その旅行の途中。アメリカというのは、ロッキーから五大湖のあたりは同じ景色が続いて自転車でどんなに走っても変わらない。退屈だった。道端でウォークマンを拾って、自転車に乗りながら聞き始めたので、音楽が体にしみいるような感覚を感じた。 by 近藤社長
2011-05-29 13:13:09近藤氏「何も無いところを走っていたところ、道ばたでウォークマンを拾った。何もないところで、音楽が身体に染み入った。(スライドは初代ウォークマン) #sn2011 #sn2011s1
2011-05-29 13:13:01#sn2011 ウォークマンの発明は音楽を持ち運べるようになり、それは人類の進化といってもいいように感じた。そういう技術を使って、人類を前に一歩進めることができるような仕事に取り組んでいきたい。何者でもない自分がそうなっていきたいと感じた。 by 近藤社長
2011-05-29 13:13:56#sn2011 そこから少し就職活動をしたが、就職活動はうまくいかず、大学院に進んだが、研究を進めたいとも思えず大学院も中退した。それでどうなりたいのかを感じていた。土手で寝転がって、悶々と考えていたら、気づいたら夜になっているというような夜があった。by 近藤社長
2011-05-29 13:15:35近藤氏「当時父親がパソコンを前に困っていることがあったので、”これ、こうやればすぐだよ”と教えた。この時””こうやって全員が学習しなければいけないのか、皆に教えなければいけないのか。何か違うな” と感じた。これでできたのが人力検索 #sn2011 #sn2011s1
2011-05-29 13:18:07近藤氏「しかし自分にはプログラムができない。京大にも”共同創業者募集!”などと張り紙をしたが、人が集まらなかった。そこで自分でプログラムをすることにした #sn2011 #sn2011s1
2011-05-29 13:20:04近藤氏「はてなの10年は4つの時期に分けられる。2001-2004は、経営が苦しく、受託開発もおこなっていた。この収益を自社サーバーの購入費に充てていた。自分達のサービスは夜中や休日に作っていた #sn2011 #sn2011s1
2011-05-29 13:21:41#sn2011 狭いブースを借りて、3人ではてなの仕事をしていた。WEBの仕事を受託しながら、サーバーの費用に充てて、サービスを立ち上げていくということをやっていった。 by 近藤社長
2011-05-29 13:21:41近藤氏「2004年、はてなダイアリーのヒットを受け、東京へ移転、さらに受託をやめて自社業務に特化した。20人くらいの組織になった #sn2011 #sn2011s1
2011-05-29 13:22:42近藤氏「2006年からはシリコンバレー、2008年からは京都で”京都から世界へ”と活動をしている #sn2011 #sn2011s1
2011-05-29 13:23:53#sn2011 それで、シリコンバレーで2年間、グローバルを目指してやっていったが、その後京都にもどってきて、京都から世界を目指すということで、取り組んでいる。 by 近藤社長
2011-05-29 13:23:20#sn2011 会社の規模のグラフとして、3人でやっていた時代というのはゼロからイチにするということで大変苦労したのだが、そのときは指数関数的に拡大していった。京都から東京、シリコンバレーと移動していく中で、どんどん成長を続けている。 by 近藤社長
2011-05-29 13:24:25#sn2011 指数関数的な動きをもっと勢いよく伸ばせなかったのはなぜか、ということを考えていると、10年間として総括として私のマネジメントについて学ぶ期間だったのかな、と感じている。 by 近藤社長
2011-05-29 13:26:11#sn2011 プログラムをセンスよくかけたり、すごいセンスいいサービスを作る力ではなく、人を動かして作る必要があるということになったときに、自分の目の届く数人の力ではなく、20人くらいになるとマネジメントの力が必要になる。 by 近藤社長。
2011-05-29 13:27:50近藤氏「初期は目が届く数人で一斉にプログラムを書いて動くものを作ってきた。人が10人20人と増えてくるにつれてマネジメントが必要になった。しかし自分は組織で働いていた経験がなかった。 #sn2011 #sn2011s1
2011-05-29 13:28:03#sn2011 フラットな会社ということで、メディアに取り上げられたり、変な会社の作り方という本を書いたりした時期もあったが、それでいいのかな、と僕自身も考えていたのでマネジメントについて十分に考えてこなかった。 by 近藤社長
2011-05-29 13:29:11