芝村裕吏氏による日本軍の軍用気球の使用実績のお話
発足当時からの分かりやすい説明でした。西南戦争に脱線したりも芝村さんらしいと思いました。
芝村裕吏
@siva_yuri
組織としてもうしあげると、日本で気球が組織的に運用を考えられたのが陸軍の臨時軍用気球研究会(明治42年1909年)なので、日本の場合、事の最初から飛行機のほうが研究の本命でした。ライト兄弟の後だったのです。日露戦争時には組織もありませんでした。
2011-06-14 16:32:49
芝村裕吏
@siva_yuri
その上で、少し時間を巻き戻すと、日露戦争の旅順攻略戦では、臨時気球隊が編成されて観測任務を行ってます。これは成功したものの、日露戦争終った直後には気球班 という規模になり、その後はまあ、鳴かず飛ばずで陸軍気球隊となったのは1936年。航空科から砲兵科になります。
2011-06-14 16:39:34
芝村裕吏
@siva_yuri
一番活躍したのは南京攻略戦の着弾観測くらいで、その後は基本内地勤務でした。 で、皆さんご存じの風船爆弾任務に移ります。 で、これが最期の仕事で、州戦を迎えます。
2011-06-14 16:42:47
芝村裕吏
@siva_yuri
ちなみに、陸軍砲兵科は科をまたいで航空支援を得るのが大変だとして、開戦しばらくは南方へ進出する際に気球隊をつれていくのですが、さすがに無理があって、良かった話はまずききません。
2011-06-14 16:45:37
芝村裕吏
@siva_yuri
なお、元々日本における気球の実践投入は西南戦争の熊本城攻防戦で政府側が使うのが最初のはずで、実験などを急ピッチでおこなっていたのですが、熊本城攻防戦が終っちゃったせいで投入はまにあいませんでした。 熊本の人間としては、少し残念かも。
2011-06-14 16:48:36