整備兵氏(seibihei)のシャルンホルストについてのお話プラスアルファ

仮作成。 多分このへんからの続き。 「備兵氏による「プロイセンの将校、シャルンホルストについて」http://togetter.com/li/169678 「『偶然』の扱い方」においては、プロイセン系の軍人においては非主流だったんだろうか。
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名無し整備兵 @seibihei

何となく、シャルンホルスト続き

2011-08-07 21:35:26
名無し整備兵 @seibihei

イエナ・アウエルシュテットの戦いに敗れたプロイセンが軍制改革に乗り出したのはよく知られている。その軍再建委員会の委員長がシャルンホルストだった

2011-08-07 21:37:49
名無し整備兵 @seibihei

軍の再建に当たって彼が企図した主目的は4つ。「新しい種類の戦争に相応した軍組織区分、兵器及びその他の装備の供給」「軍構成要員の教化と精神の向上、従って外国人募集制度の廃止、一般的兵役義務制度への接近、体罰の禁止、優れた軍事教育学校の設立」

2011-08-07 21:41:10
名無し整備兵 @seibihei

「大部隊の指揮官となる将校の周到綿密な選抜、従来プロイセンの軍隊において余りに大きな支配力をふるって、軍隊に指揮官を供給していた年功序列制度はその権利を制限された。そしてそれと並んで最近まで実戦に参加した者または戦争の何らかの技術において抜きん出た者を抜擢すべしという(続く)

2011-08-07 21:43:38
名無し整備兵 @seibihei

現下の情勢に照らして非常に健全な原則が定められた。そして実際にシャルンホルストの行政下においては後に最も卓越した指揮官に数えられた人々の大多数がまず抜擢されたのである。」

2011-08-07 21:45:00
名無し整備兵 @seibihei

「新しい軍隊」を模索したシャルンホルストの原点をハノーバー軍の士官学校に求める向きもある。ただしエーベルハルト・ケッセルによればその軍事組織は「将来の国民の軍隊というよりは、むしろ過去の時代の領土防衛と防御工事に比肩されるもの」であったという

2011-08-07 21:58:57
名無し整備兵 @seibihei

もちろん改革が順調に行ったわけではない。プロイセンの復活を危ぶむフランスは度重なる干渉を行い、また特権を奪われることを恐れる貴族の抵抗もあった。彼と協力した陸軍大臣シュタインは、フランスの圧力で更迭させられた。

2011-08-07 22:05:41
名無し整備兵 @seibihei

それでもシャルンホルストが改革を続けられたのは何故か。国王の信頼もあったろうし、本人の慎重な行動もあったろう。

2011-08-07 22:13:11
名無し整備兵 @seibihei

例えば予備役・後備役の考え方である。シャルンホルストはオーストリアに倣い、地方軍(Landwehr)の理念を取り入れようとした。しかしそれが政治的な問題になり得ることを理解し、実施を強行するようなことはなかった。

2011-08-07 22:26:11
名無し整備兵 @seibihei

シャルンホルストが組織した軍事学会は、国王の勅許を得て作られた横断的組織だった。フランスの疑念を招いたとはいえ、彼はあからさまに攻撃されるような軽率な行動に出ないよう慎重さを守り、国王の信頼をつなぎとめた

2011-08-07 22:40:44
名無し整備兵 @seibihei

後に触れるが、シャルンホルストが雄弁な人物でなかったことが、彼の身を救ったのかもしれない。フィヒテのようなアジテーションなど、彼にできるはずもなかった。それは彼の味方も敵も知っていた。

2011-08-07 22:42:58
名無し整備兵 @seibihei

フランス軍がロシアで敗北した後、プロイセンは他の各国とともにナポレオンに戦いを挑んだ。この時の戦力を支えたのはシャルンホルストが育てようとした新たな軍隊である。もちろん、この軍隊に装備を与え訓練を行ったのは、シャルンホルスト一人だけの功績ではない。

2011-08-07 22:51:55
名無し整備兵 @seibihei

ナポレオンをエルバ島送りにするのを見ずに戦傷に倒れたのは、彼としては無念だったろう。しかしワーテルローに至るまで、ナポレオンを追い詰める戦力の少なからずは彼が育てたプロイセン軍が占めていた。

2011-08-07 23:07:52
名無し整備兵 @seibihei

さて、シャルンホルストの性格である。歴史群像にも載っているように、全く華々しくない。褒めているつもりのクラウゼヴィッツも「かかる精神は貴重な果実を静かに成熟させるが、他の人と違って、誇らしげに花を咲かせることはなかった」とはっきり言っている。

2011-08-07 23:17:01
名無し整備兵 @seibihei

同じ回想の別の場所では、「シャルンホルスト将軍には人を驚かせるほどの表現の不器用さがあった」「その講義は、彼にはあたかも自分の理念の伝達が難しいことであるかのようにぎこちなかった」「冗長であり不確定であり緩慢であるというのが第一印象であった」と手厳しい。

2011-08-07 23:20:46
名無し整備兵 @seibihei

「表現のこのぎこちなさは、ゆっくりしたハノーバー地方の話し方によって強められて、彼についての多くの人の判断を絶えず誤った方向に追いやった」って、クラウゼヴィッツ将軍もしかして師匠disってる?

2011-08-07 23:23:14
名無し整備兵 @seibihei

もちろんそんなことはなく、「全体の本質においてこれほど実際的かつ活動的な人間はなかった」としている。今でもプレゼン能力の低さで損している人は多いだろう。しかし演説の上手さを統率に結びつけた軍人はカエサル以来多いだろうが、口下手でも有能な軍人、というのは珍しい

2011-08-07 23:26:56
名無し整備兵 @seibihei

実際には事務処理や著作の方が向いている軍人は昔から多かったのかもしれないが、それは軍事行政や軍事教育が専門化されてから重要になったのかもしれない。この辺りはまたつぶやくこともあろう

2011-08-07 23:29:36
名無し整備兵 @seibihei

このアイコンはwikimediaから落としてきた著作権フリーの画像だが、元の画像をよく見てほしい。よく見なくても、顎の周りに剃り残しのような色がある。

2011-08-07 23:39:33
名無し整備兵 @seibihei

シャルンホルストは、とにかく身なりに気を使わなかったらしい。長身の人によくある猫背、ぼさぼさの髪は、フリードリヒ大王時代のきらびやかさを重んじるプロイセン軍内でかなり浮いていた。

2011-08-07 23:41:17
名無し整備兵 @seibihei

身なりといえば、シャルンホルストの100年以上後の大モルトケも、身なりに気を使わなかった。ぶかぶかの帽子とよれよれの軍服を身に着けた肖像画を、「こっちの方が僕らしい」と好んだほどだ。そのモルトケは「参謀は見た目以上であれ」と教えている。

2011-08-07 23:44:33
名無し整備兵 @seibihei

別に「みすぼらしい恰好でいろ」というわけではないだろうが、「身なりより重要なことは他にある」という教えだと思える。シャルンホルストがこれを聞いたら、自分のことかと勘違いするかもしれない。

2011-08-07 23:46:19
名無し整備兵 @seibihei

兵術思想についても、シャルンホルストとモルトケの共通点がある。それは偶然の扱いだ。シャルンホルストは「人は偶然をその活動範囲にしなければならぬ。何故なら人はそれを完全に除くことはできないのであって、人はそれを制限しようとして却ってその領域を広げるのである」と述べている。

2011-08-07 23:52:49
名無し整備兵 @seibihei

よく知られているように、モルトケは「戦略とは、臨機応変の体系である」と論じた。その間に立つクラウゼヴィッツは、戦場の霧と摩擦、それらを克服するための指揮官の意思について書いた。この偶然に対する扱いがプロイセン兵学を通じて流れる一本の線である

2011-08-07 23:58:20
名無し整備兵 @seibihei

この現実的な兵術から逸脱したといわれるのがシュリーフェンである。彼は二正面対処という必要性に迫られ、綿密な計算を元に偶然性を排除した作戦計画を作成した。もっとも、こちらの方が我々がジョークにするドイツ人のステレオタイプに近い。

2011-08-08 00:05:48