戦前の日本の航空機産業と技術開発、技術立国への始まり

富国強兵の遺産という本からの抜粋など個人的なメモになります。 関連まとめ http://togetter.com/li/172512
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ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

日本軍が航空機産業に力を入れるきっかけになったのはワシントン軍縮会議が大きなきっかけみたいですね

2011-08-10 21:29:27
小野仁@豊原航技 C102日東“イ”51a @yukikazemaru

「戦艦が作れないなら、飛行機で敵艦艇を沈めれば良いじゃない」 RT @futaba_AFB: 日本軍が航空機産業に力を入れるきっかけになったのはワシントン軍縮会議が大きなきっかけみたいですね

2011-08-10 21:31:27
のり @DDH_182_no2ri

より顕著になるのがロンドン軍縮会議後ですね。あれで補助艦整備がアボンしましたから RT @yukikazemaru: 「戦艦が作れないなら、飛行機で敵艦艇を沈めれば良いじゃない」 RT @futaba_AFB: 日本軍が航空機産業に力を入れるきっかけになったのは

2011-08-10 21:32:49
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

海軍が航空技術の育成と、航空機メーカーへの後押しは色々なところで見られます。逆に陸軍は空技廠にあたる組織の失敗などもあり、民間企業に研究、設計、試作機の製作、生産そのすべてをまかせるようになり、発注と審査の管理に注力することになったそうです。

2011-08-10 21:36:27
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

陸軍の航空機メーカーへの指導は国産品の使用率を上げるよう促す一方で、ライセンス生産という危険な賭けによって、外国からの技術導入を積極的に取り入れたそうです。

2011-08-10 21:38:30
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

陸海軍とも資金を投じて研究開発を進めて、規格統一や、工作機械の習熟、各国の日本大使館の武官にその国の技術の調査と取得を命じたり、凄く貪欲に技術導入を進めています。とはいえ陸海軍では技術を共有しようという動きはなかったのと、1927年の航空法が決定打になるようです。

2011-08-10 21:41:14
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

この航空法によって、陸軍に納入できるメーカー、海軍に納入出来るメーカーが制限される事になったそうです。私はこの話初耳だったのですが、他の本でフレられたことがありましたでしょうか?

2011-08-10 21:46:17
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

なので、愛知や川西やらが陸軍の飛行機を開発していなかったり、川崎や立川が海軍機を開発指定ないのもこの航空法が元のようです。例外的に中島飛行機と三菱だけが陸海軍とも納入できたと言うことだそうです。

2011-08-10 21:48:40
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

さて、ロンドン軍縮条約によって、航空機生産はさらに拡大し、軍部はこれを受けて初めてメーカー同士の競争試作を行うことになり、1925年陸軍向けの航空機が最初の競作だそうです。

2011-08-10 21:51:15
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

1930年ごろになると軍部の航空産業への支援はさらに強くなり、設備投資の支援によって、試験設備、特殊鋼、工作機械を購入させ、日本産業銀行の資金を政府が立てた工場すべての融資に当てたそうです。

2011-08-10 21:53:25
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

さらに山本五十六は公的な支援政策として航空技術自立計画をまとめ、1932年から参加年として採択され、これは表向きには「今後、軍部が調達する航空機とエンジンはすべて日本人技術者が設計したものでなければならない」というものだったそうです。

2011-08-10 21:55:07
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

この自立計画がそれまで育ててきた航空機産業の国産化の大きなブースターとなるようですね、この計画発表後10年間で5000機の航空機を製造することになっていきますが、その前の10年間はわずか400機だったそうで

2011-08-10 21:58:21
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

もう一つ重要なこととして、航空機メーカー同士の技術協力や技術の共有化が打ち出されたことだそうで、それっぽい話は知っていたのですが、ここまではっきりしたものだったとは知らなかったので少々驚きました。

2011-08-10 22:00:13
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

具体的にどういうことが行われたかというと、中島初期の成功作の寿エンジンは愛知と川崎によっても生産され、期待についても88式軽爆撃機で川崎に命じて立川飛行機に設計図と技術支援を養成し、立川飛行機で製造させているそうです。

2011-08-10 22:02:56
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

なので、中島飛行機が、三菱が開発した零戦を生産するのも必然だったと言えるのかもですね

2011-08-10 22:03:29
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

海軍の空技廠が作られるのは1932年で、最初の仕事は海軍向けの戦闘機、攻撃機、偵察機の試作機の製作を航空機メーカーに競作させることで、各メーカーは自分たちが特異でない機種においても、競争に参加することを軍から要求されたそうです。

2011-08-10 22:05:51
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

日本の競争試作の面白いところは、試作機が採用されなかったメーカーは採用されたメーカーの設計通りの航空機を製造し、セカンドソースとして軍に製品を納入することになり、競争と同時に技術共有が行われて、航空機の製造方法、部品の統一方法は決定的に変化したそうです。

2011-08-10 22:07:40
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

今思えば、航空機メーカーの技術者の手記でこの管理方法やら設計方法は他者よりも優れていたよ!とよく書いていたのは、競作に敗れた際にセカンドソースとして生産することによって、技術共有が行われて自分のメーカーの強みがはっきり可視化されていたのかもしれませんね

2011-08-10 22:09:21
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

これらの精力的な努力の集大成が96式陸上攻撃機であり、零戦でその努力はちゃんとした成果を残したと

2011-08-10 22:10:46
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

零戦の中島飛行機での生産は海軍による命令で1941年に設計図を与えさせているようですね

2011-08-10 22:12:04
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

競作によって、それぞれのメーカーは自分たちの技術を特化させることになり、棲み分けが徐々に行われるようになると

2011-08-10 22:13:40
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

これに関しては陸海軍ともに共通して行われていたのですが、その中身は陸海軍で違いがあったみたいです。

2011-08-10 22:14:23
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

陸軍は先ほど述べたようにほぼすべてを民間企業に前任し、発注、検査、改良だけにとどめた一方で、海軍は空技廠で独自の試作機の開発も行い、その際密接に民間企業と連携をとって仕事を進めたりしていたそうです。

2011-08-10 22:15:43
ぼろ太@C102 日曜日 東地区 “ア” ブロック 27b @futaba_AFB

このやり方は、メーカー技術者にとって大きな助けとなり、空技廠は技術集団として大きな影響を与えていたみたいですね、アメリカで言うとNACA(NASAの前身)と同じ役目を果たしたというこということでしょうか?

2011-08-10 22:17:43
小野仁@豊原航技 C102日東“イ”51a @yukikazemaru

@futaba_AFB それは過大評価だと思います。NACAは、独立した機関として航空工学(後には宇宙工学を含む)学問分野を発展させました。でも、戦争に負けて居なかったら、空技廠は上手くく発展していたかもしれません。

2011-08-10 22:21:16