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※物部布都について
※スペカについて 天符「雨の磐舟」、天符「天の磐舟よ天へ昇れ」
神社に巨岩として鎮座しているから、それを目覚めさせて復活させるということか。それとも、滅亡した一族の地位を浮上させるとか、そんなニュアンスなのか。最近の学説とかでの動向とかと関連させて、もし注目されてその地位が向上したのであればその動向との関連を示唆するのか…。
2011-09-14 16:59:05※スペカの流れについて
まあ、普通に考えたら1〜3枚目は歴史上の流れを追っているだけに見えるけれど…。最後は最後でまた物議を醸しそうなネタだし…。
2011-09-14 17:04:07※容姿について
まず容姿で一言。下半身の白い布の縁に描かれている点と線の図柄ですが…あれってやはり、ニギハヤヒ命が携えていたという「十種神宝(とくさのかむだから)」の図(特に「新編武蔵国風土記稿」などに見える図像)を模したものなのではないだろうか?と個人的には思っている(完全には一致しないが)。
2011-09-16 21:24:47※スペカについて 炎符「桜井寺炎上」
さて、それは良いとして…今回一番気になったのは、炎符「桜井寺炎上」です。というのも、「日本書紀」(欽明天皇十三年十月)に記されている記述では、蘇我稲目が小墾田の家に安置して信奉した後、向原の家を清めて寺とした、ということは書かれているものの、「桜井」という名前が出てこないため。
2011-09-16 21:34:34しかし他の場所に目を向けると…「日本書紀」の本文で「桜井寺」の記述が見えるのは、崇峻天皇三年三月の項に「学問尼善信寺、百済より還りて、櫻井寺に住(はべ)り。」とあるように、確かに日本書紀の中で「桜井寺」の記述がありますので、完結はしていますね。
2011-09-16 22:10:33つまり「向原寺=桜井寺=豊浦寺」というわけですね。最初の向原寺は先ほどもちょっと言及しましたが、蘇我稲目が開いた日本最古の寺。そして、この寺を開いた後に疫病が蔓延して民が数多夭逝するという事態が起きます。
2011-09-16 22:19:14これに対して、物部尾輿と中臣鎌子の二人が稲目が謀をしたためだと奏上して、仏像を難波の堀江という場所に捨て、伽藍を焼きました。 この一連の事件が元ネタであると考えられます。
2011-09-16 22:22:22これに関しては、「別名が複数あった」というよりは、「時代ごとに名前が変化した」といった方が正しいようです。「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」に拠れば、仏教伝来の初めは蘇我稲目の向原(牟久原)の家を寺としたもの(これは前述の通り)。
2011-09-16 22:29:13つまり、「牟久原殿ヲ楷井ニ癸卯(敏達十二年)始作ニ桜井道場-」とあるのがそれ。 ※先の「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」は中での齟齬が多いという風聞を聞いたのでちょっと留意しなければなりませんが…。
2011-09-16 22:35:20日本書紀でも崇峻天皇三年で桜井寺と称しており、その後いつかは確認していませんが推古朝で豊浦寺と改めたのであれば、5中・5・6ボスがいた時代的には件のお寺が「桜井寺」と呼ばれていたのかもしれません。ということで妥当性がありそうです(豊浦寺に改称した時期は確認しないといけませんが)。
2011-09-16 22:38:41一方で、尾輿らが仏像を捨て、伽藍を燃やしたときはまだ「向原寺」という名前だったと考えられるので、そういった意味では「桜井寺」と呼称した理由についてはもう少し深く考える必要があるかもしれませんね。
2011-09-16 22:42:27