苦手を責めるより得意を伸ばすほうが大切

得意不得意は人それぞれのはず。人によっては難なくできるのに「これができるなんてすごい」と言われることがある一方、努力しても身につかず「こんなこともできないのか」と言われることもある。 どちらになるかは、それをできる人が多いかどうかだけで決められているのではないか。 「そういうものさ」と思う人でも、多くの人ができるのに自分はどうもできない、とコンプレックスを感じていることはなにかあるのでは。 多くの人ができるからと無理にさせようとするより、それぞれなりの得意なことを伸ばす方が大切では、という話。
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芹沢文書 @DocSeri

私にとって簡単なことが他人にとっては酷く不得手であることもある。逆に他人がいとも簡単にやってのけることを私が全くできないこともある。ただそれだけのことなのに、「簡単なこと」と見做す人数の多寡で「特殊技能の持ち主」と見做されたり、「こんなこともできない低能」と見做されたりする。

2011-10-17 17:32:23
芹沢文書 @DocSeri

要するに多数側から少数側への差別なのだ。例えば「忘れ物をしない」程度のことが、できない人が圧倒的に多数だったら別に問題にはなるまい。「忘れ物しないんだ、凄いねー」で終わってしまう。でも少数だと「どうしてこの程度のこともできないんだ!小学生からやり直せ!」などと言われる。不条理だ。

2011-10-17 17:34:17
芹沢文書 @DocSeri

私は自分の注意力のなさを自覚しているし、それが成長と共に解消されるものでも努力で解消できるものでもないことも知っているので、長女がそういったことで日々叱られることに対し強く同情してしまう。叱る側の妻の事情もわかるのだけど、やっぱりそこに不条理を感じずにはいられないのだ。

2011-10-17 17:39:36
芹沢文書 @DocSeri

ここで一番問題なのは学校側だと思ってる。明らかに、「注意すればできること」という前提で「家庭に対する指導」を行う。矢面に立たされるのは妻で、それなりの「躾」をせざるを得ない。そうではなく、得手不得手のひとつとしてそれなりの折り合いを付けるべきなのだと思うのだが。

2011-10-17 17:42:09
芹沢文書 @DocSeri

かつては「本人の努力が足りない」と一顧だにされず、また「成長の遅い子供に特有のこと」と無視されてきた注意欠陥障害は、実は(目立たないだけで)大人にもしっかり存在していることが明らかになりつつある。実際は「今まで個々人の問題で片付けられていた」だけだ。

2011-10-17 17:44:00
芹沢文書 @DocSeri

こういう精神的な問題は、病理にせよ障害にせよ、切り分けが困難で研究の進んでいない分野であり、専門家の間ですら意見が分かれる。市井にあっては存在すら知られていない。それでも、意外に多くの人が持つ「症状」であることが解ってきた。実はそれほど特殊なことでもないということだ。

2011-10-17 17:47:00
芹沢文書 @DocSeri

だけど、「症状がもっとも顕著な」子供を見ている筈の学校ではそういう認識を持っていない。注意力が不足していたり集中力を欠いている児童は「問題児」と見做されるだけで、「そういう特質」という理解はないままに叱る。叱られた方は不条理を感じながらも抗えない。圧迫され、疎外される。

2011-10-17 17:49:03
芹沢文書 @DocSeri

本当に必要なのは、叱る目的でない「何故できないのか」という問いではないか。「できないから駄目だ」ではなく原因を探り、可能な範囲での努力を探る。不向きなことが不向きな程度にしかできないのは当然のことで、得意な人と同程度にやれというのが無理な相談なのだから。

2011-10-17 17:50:33
芹沢文書 @DocSeri

まあ「障害であるかどうか」は問題じゃない。それは単なる分類だ。重要なのは、「持って生まれた特質である」という理解。足の遅い子を早い子並みに走らせようとはしないように、集中の苦手な子を苦にならない子と同程度に集中させようというのがそもそも間違っている。

2011-10-17 17:57:32
芹沢文書 @DocSeri

努力が無駄とは言わない。遅い子だって毎日走り込めばそれなりには走れるようになる。でもそのために要する労力は人に倍するし、得意な子は遊びの延長でそれ以上の伸びを見せる。そうまでして苦手を埋めるより、私としては得意を伸ばした方が建設的だと思う。ニッチで理解され難い分野だとしても。

2011-10-17 18:02:57