ラカン先生は自分が本当に参照しているテクストを隠す癖がある
昨日の講演会はレジュメがあればアップできるのですが,レジュメというか原稿そのままになっており,現在投稿先を検討中のためアップできませんすいません…>関係各位 今後の精神病に関する議論の何かしらの土台となればと思うので,皆様の目につきやすいところに載せていただけるといいのですが…
2011-11-26 22:07:25というわけで,むしろ昨日の話を補足してみる.60年代のラカン理論では,それまでシニフィアンの病理として捉えられていた精神病現象を,一種の「対象aの陽性化」として捉える視点が出てくる,という話をした.例えば,対象aとしての「声」と「眼差し」が精神病では現実に現れる.
2011-11-26 23:11:31「声」が陽性化すると,幻聴になる.「眼差し」が陽性化すると,「誰かにみられている」「監視されている」という被注察感,注察妄想になる.大変わかりやすくてよい.対象aの残りの2つ,糞便と乳房はどうなるか気になる人は次のPDFをどうぞ.http://t.co/AIuxDBOE
2011-11-26 23:19:15この話が何に役立つかというと,なぜ統合失調症では幻聴が多く,幻視はめったにみられないのかということを説明してくれるのである.幻覚を知覚のモダリティによって5感のそれぞれ(視覚,聴覚,嗅覚など)に様々に現れるものと考えると,このことがわからなくなってしまう.
2011-11-26 23:21:10幻聴は声の陽性化なので視覚に現れる.一方,眼差しの領域における幻覚に対応するものは幻視ではなく,「まなざされること」つまり被注察感である,ということ.
2011-11-26 23:22:38実はこの話はラカンの独創ではなくて,その前に精神病理学者ツットが指摘している. Zutt,J.:Blick und Stimme-Beitrag zur Grundlegung einer verstehender Anthropologie.Nervenarzt,28,1957
2011-11-26 23:26:00ジャック・ラカン:精神分析の四基本概念 http://t.co/r2a8GVRb これに出てくる「俺が空き缶を見てたんじゃなくて,空き缶のほうが俺を見ていた」という眼差し体験は,こういう文脈のもとで把握すべきなのです.人はときにこのような眼差される体験をする.
2011-11-26 23:28:59精神病では,このような眼差しという対象aが世界のいたるところに氾濫しはじめる.この点で,神経症と精神病は区別できるというわけ.
2011-11-26 23:30:14見てる!あずにゃんが僕を見てるぞ! ペロペロ(^ω^) http://t.co/xa2njhP2 このスレにどうしても狂気のなかの崇高さを感じてしまうのはそのためでしょう.「俺があずにゃんを見ているのではなくて,あずにゃんの方が俺をみている!」体験.
2011-11-26 23:33:23脱線したけど,ラカンが対象aをリストアップするときの思考過程を考えてみると,なぜ声,眼差し,乳房,糞便の4つが選ばれたのかがわかってくる.乳房と糞便は精神分析における伝統的な部分対象.声と眼差しは精神病現象から抽出された.性器は全体的な性に対応するので部分対象からはオミットされた
2011-11-26 23:37:59もうちょっと話もどすと,ラカンは50年代~60年代の理論をつくっていくなかで,かなりドイツ語圏の精神病理学を参照してそう.さっきのZuttの声と眼差しの話もしかり.ラカンが発刊したLa Psychanalyse誌にはドイツ精神病理学の新着論文の紹介が載っていたりもする.
2011-11-26 23:44:01昨日の打ち上げでもした話だけど,ラカン先生は自分が本当に参照しているテクストを隠す癖がある.「排除forclusion」の語はパクリだったのに巧妙に隠していた話は有名ですね→ 赤間啓之:ユートピアのラカン http://t.co/W5tcPPFn
2011-11-26 23:48:34宣伝ですが,ラカンはヤスパースをおもいっきりDISしているけど,こういうDISはリスペクトの裏返しであって,実は精神病を論じるラカンは「ヤスパースの正当な後継者」と呼ぶことすらできる.という発表を日本ラカン協会大会で12/11にやります. http://t.co/bCRr0sTt
2011-11-26 23:52:46そういえばこういう話も金曜日の質疑応答で喋った.フロイトは無意識を言語とだけ考えていたわけではない(「無意識には語表象なく,物表象からのみ構成されている) この点を突いて,ラカンの無意識=言語という理解をフロイトの誤読として批判するのがアンドレ・グリーン.
2011-11-27 15:17:57精神分析の倫理 上 http://t.co/TC3I13LU しかし,ラカンはあれほど言語,象徴といいながら,シニフィアンに回収しきれない次元を常に考えていたようにもみえる.とりわけ『倫理』セミネールの第一部はその作業にあてられている.
2011-11-27 15:20:2150年代のラカンは,シニフィアンを強調する.それはおそらく,あまりにも想像界優位でなされていた当時の分析に対して象徴的なものを復権するための一種の作戦であったのではないだろうか.60年代になると,ラカンはシニフィアンの次元と享楽の次元を均等に重視し始める(もう一人のラカン!)
2011-11-27 15:22:3570年代になると,もはや大他者への信頼は失墜し,そのかわりに一者(l'Un)が取り扱われ,それまで優位であった象徴界は想像界,現実界と平等に扱われ始める.そして,この時代においてシニフィアンは,もはや言語を超えたものを最初から孕んでおり,シニフィアンと享楽は一緒に考えられる.
2011-11-27 15:25:16これは,「無意識は物表象からのみ構成されている」と論じたフロイトへの「二回目の回帰」とすら呼べるだろう.「無意識は言語のように構造化されている」をキャッチコピーにするようなラカンの解説書は,日本への構造主義の輸入期に役に立ったかもしれないが,いい加減アップデートが必要だろう.
2011-11-27 15:30:00フィリップ ジュリアン:ラカン、フロイトへの回帰―ラカン入門 http://t.co/v40vmEhm この本は,ラカンの思考の全行程は,たえず想像界との対話において行われてきたとするもの.
2011-11-27 15:31:53Lacan, l'inconscient réinventé:Colette Soler http://t.co/wfE5Vg46 ソレール曰く,70年代ラカンにおけるシニフィアンのあり方は,「motérialité(語物質性)」 とでもいうべきものである,ということ.
2011-11-27 15:44:37