文治派と武断派に付いてのお話…そしておまけの武功派と、替え歌。
- nightmere666
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(腹の底の様々な想いは違うとしても、あの辺りとなると、奴と俺はもう一蓮托生もいいところだからな…。やはり色々言われると辛い、し、な…。などと思ったり。)
2012-02-15 20:57:51(いや、つい自分は「武功派」として考えておりましたので、俺ってそーいや「武断派」だったんだと… 今更何行ってるんだと言われそうですが。しかし、自分の名前を電視絡繰で見ることが出来るというのは少し嬉しいですね…(ほくほく)
2012-02-15 20:59:17@1561_naomasa 武断派っていうのは、一応豊臣配下の武将のことだから、普通はいれないんじゃないのか。たぶん。
2012-02-15 21:02:31@sakaki_koheita …そうですよね? いくら太閤殿より官位を頂いておりましても… なんだかピンときませんでしたから…
2012-02-15 21:04:10えっ 長束殿の基準がゆるやか?左近もそうでございましたが、どんだけ酷いかと構えた反動でございますか?笑 RT @*** 真っ当……かな……? @*** でも殿ちょっとやなひとな感じでしたよ…(´・ω・)
2012-02-15 21:18:34武断・文治の件、一斉の御肯定ありがとう存じまする笑 …然うですな、関ヶ原時点では結果的にそうなっておりましたが、少々語弊もございましょうか。
2012-02-15 21:25:17「臆病者」「自己保身第一」「主家を捨てて…」なぁんて書いてある書もあるが、そもそも「臆病者」が帳簿を時の権力者に叩きつけたり、戦でお前らもっと突っ込めよと叱咤したり、「自己保身第一」の者が敗戦の撤退時に仲間の不案内を心配したりしねえ!……と、ついでに自分の弁明もしておくのである。
2012-02-15 21:34:48蛇足とは思いつつ、武断・文治の分け方を一応。 敢えて言うならば「豊臣政権の中における役割・出世の仕方の違い」と申し上げた方が、まだ近いかと存じまする^^
2012-02-15 21:44:20そんな訳で、今夜はひすとりーで、徳川勢に「武断派」と記入されておりましたが、「武断派」の一部が徳川勢にいた…ということで。
2012-02-15 21:47:43清正殿や忠興殿など、軍務を執って戦功を上げる、いわゆる¨武将¨らしい働きをなさったのが武断派。 対して三成様や長束殿を始めとする、税務・政務・戦では兵站差配等¨政治家¨の働きをしたのが文治派、と申せば分かり良うございましょうか。
2012-02-15 21:50:51他国と相争う乱世では、やはり他家を平らげる”武将”が重んじられまするな。なれど乱が絶えると、今度は国をすこやかに治めるに長けた官僚が不可欠。 という訳で天下を統一なさった太閤殿下は、文治派諸将を重用なさいました。
2012-02-15 21:59:48殿など「あいつ太閤殿下にめっちゃ引き立てられてさー、ぶっちぎりの権力者だぜ今!逆らえねえ!(意訳)」と残る程の御権勢でしてな笑 比して争いは減り、軍務の重みは薄らいでゆく。命懸けで天下統一に貢献なさった方々には、面白いかろう筈もありませぬ。
2012-02-15 22:12:36という訳で関ヶ原以前から、文治vs武断の萌芽はございました。 それが豊臣秀次様事件・朝鮮の役を経てさらに鮮明になって行くのでございますが……きりがありませぬな、詳細はまたの機会に。
2012-02-15 22:22:20一方で家康殿はむくむくと力を増され、二百五十万石の大大名。"徳川"は"徳川"で、充分に権勢と影響力をお持ちでした。 対立が極限に達し、武断派七将が三成様を襲撃した際には、仲介に立って頂いておりまする。
2012-02-15 22:29:55