- ashzashwash
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きみはそんな男ではない。昼さがりのこんな時間に,こんな場所にいるような男ではない。午後の陽をあびて金色にかがやくエルサレムの町からわずかに離れたゴルゴダの丘の上で,魔女の手めいた潅木の枯枝だけが,慈悲の心で,きみの傷ついたからだに手を差しのべる。 #twnovel #him 1
2010-06-06 21:14:13文献がはっきり記述していないために,Tの字にも十の字にも見えてしまう曖昧な十字架に釘づけにされた傷ぐちに,血の匂いをかぎつけた蠅の群がうごめいている。これほどの苦痛を言葉にかえるすべなど,どこにもありはしない。 #twnovel #him 2
2010-06-06 21:14:46しかし,いま,きみがいるのは,まちがいなく此処なのだ。この処刑地の風景には見覚えがないと,きみは云うことができない。ガリラヤのナザレという土地で,君は大工として暮し,ロ-マ人の注文に応じて,政治犯を処刑するための木の十字架を作っていたのだから。 #twnovel #him 3
2010-06-06 21:15:13そればかりではない。兵士からの徴用にあらがうこともなく,自作の十字架をかついで,処刑地までひきたてられる死刑囚のあとを,とぼとぼと歩いていたのではなかったか。 #twnovel #him 4
2010-06-06 21:15:24そして,手首と足首に釘をうちつけられた罪人のそばで,熱い返り血をほほに浴び,気を遠くしたのは,あれはまぎれもなく数週間,あるいは数カ月,もしかすると数年もまえのきみの姿だ。 #twnovel #thim 5
2010-06-06 21:15:56あのとき,マーティン・スコセッシのキャスティングによって,ウィレム・デフォー演じるところのきみが,ブラウン管のなかでうろたえるのを私は観た。ウィレム・デフォーは壁を背にして,アラブ人のように見える男と話していた。 #twnovel #him 6
2010-06-06 21:16:14男の名はイスカリオテのユダ。もちろんユダヤ人だ。しかし,現代人であるウィレム・デフォーの目には,このユダヤ人はアラブ人のように見える。 #twnovel #him 7
2010-06-07 15:56:25ウィレム・デフォーは不思議そうにユダの顔をみつめる。しかし,そんなことを口にしたりはしない。かれはきみを演じることに酔いしれている。この程度の当惑で,この大役をふいにするつもりなどない。 #twnovel #him 8
2010-06-06 21:16:47不意に,ユダが大声で詰問し,きみはわれにかえる。「なぜ,おまえは,同胞の処刑に協力するのだ!なぜ,おまえは,われわれと共に立ちあがり,ローマに反旗をひるがえさないのだ!」 #twnovel #him 9
2010-06-06 21:16:59ユダに詰めよられたきみは台本どおり「わたしが望むのは憐れみであって,暴力ではない」と答えるのだが,そのとき,きみの内側でウィレム・デフォーの声がこう囁く。この紀元前の世界で,ユダヤ人がアラブ人のように見えるのは,きっとこういうことにちがいない。 #twnovel #him 10
2010-06-06 21:17:12聖地を追われて世界中に散ったユダヤ人たちは,それぞれの土地に順応したはいいものの,数世紀を経るうちに,しだいに,かつての砂漠の民としての特徴を失っていったにちがいない。 #twnovel #him 11
2010-06-06 21:17:27そして皮肉なことに,この21世紀初頭にあっては,かつてのユダヤ的風貌をそなえている民族は,かれらの不在のあいだ,ずっと砂漠で暮していた連中,すなわち,イスラエルが反目してやまない宿命のライバル,アラブの民だけになってしまったというわけだ。 #twnovel #him 12
2010-06-06 21:17:45おもわずきみは,ウィレム・デフォーの意識であたりを見回す。そうとも,これはかれの知らない過去の風景なのだ。 #twnovel #him 13
2010-06-06 21:18:07此処が,もし現代のイスラエルならば,アメリカ人のように見えるユダヤ人,スコットランド人のように見えるユダヤ人,スラブ人のように見えるユダヤ人,アジア人のように見えるユダヤ人,はてはゲルマン人のように見えるユダヤ人などで溢れているはずだ。 #twnovel #him 14
2010-06-06 21:18:42さきほどから,T字になったり十字になったり,不確実性を帯びた物体として屹立し,物見高い見物人たちの目を白黒させている十字架は,ともすれば窒息してしまう姿勢をたてなおし,いますこしきみを生かしておくためにどうしても必要な延命装置なのだ。 #twnovel #him 16
2010-06-06 21:19:08「いますこし生かしておくだと。冗談じゃない。これほどの苦しみには,もう一瞬だって耐えられない!」 #twnovel #him 17
2010-06-06 21:19:20ついに,ウィレム・デフォーの意識は,あまりの激痛に耐えかねて,契約違反を声高にわめきちらしながら,さっさとニューヨークに帰ってしまった。 #twnovel #him 18
2010-06-06 21:19:31いまごろはブルックリンにあるジョルディーノのイタリアン・レストランで,美味なるフンギ・ポルチーニのショートパスタに舌鼓を打っているはずだ。 #twnovel #him 19
2010-06-06 21:19:41「フンギには白ワインだと。くだらん。冷やした赤をくれ。ロック・グラスにたっぷり注いでな」などとうそぶき,かつて2週間滞在しただけのヴェネチア風の習慣に固執して,給仕のあからさまな嘲笑を浴びていることだろう。 #twnovel #him 20
2010-06-06 21:19:55そしてきみは足元の兵士に懇願する。「おねがいだ。その槍で,ひとおもいに殺してくれ」すると,キャラクターがまったく与えられていないために,能面のような顔のつくりでごまかしている兵士が,どのような意味にでもとれる表情をして答える。 #twnovel #him 22
2010-06-07 23:40:24「ユダヤの王よ」と,これはまた,われながら巧い呼びかけだなあ,兵士はひそかに自己満足にひたる。これなら,この犯罪者の狂信的な言説にたいする揶揄ともとれるから,この時代のロ-マ人兵士としての立場をあやうくすることもない。 #twnovel #him 23
2010-06-07 23:41:00また,聞きようによっては,いずれ聖人として祭りあげられローマン・カトリック創設の基盤ともなるこの御方の預言を肯定しているようにも解釈できるから,後世,無知なるがゆえに大罪を犯した愚者のひとりとして怨嗟の的となる可能性を減らすことにもなるだろう。 #twnovel #him 24
2010-06-07 23:41:37「ユダヤの王よ。それはできない相談だ。この槍は磔刑者の死を確かめるために使うものだ。罪人に突きさして殺すためのものではないのだよ。ええと」と,粗布で織られた衣装の胸元から新約聖書を取りだすと,兵士は云った。 #twnovel #him 25
2010-06-07 23:41:57