アイユーブ朝列伝 武臣・文臣

2012.03.27:武臣1~10、文臣1~8 28:武臣11、文臣9~10 31:武臣12~14、武臣12~13
11

武臣文臣の区別は必ずしも明確ではないので、恣意的に振り分けています。

■武臣
いわゆるアミール(武将・司令官)たち。大アイユーブ朝のスルターンとなった人は除外していますが、マリクの称号を持つアイユーブ家の人々は含めています。

匈奴の人 @toquzoguz1055

【アイユーブ朝志列伝・武臣01】ソンコル・アル=ヒラーティー(?-1189) サラディンのマムルーク。87年のエルサレム解放の際に総督として派遣され、捕虜の処置を一任された。身代金によりフランク人を解放したのは彼の方針。翌年スルタン直属のマムルーク隊の司令官に抜擢されるが急死。

2012-03-27 17:12:02

>アルメニア人商人ウマル・アル=ヒラーティーからサラディンが購入したマムルーク。1185年にマイヤーファーリキーンとディヤルバクルの統治を任された。1188年に急死するが、かなりの財産を残していた模様。

匈奴の人 @toquzoguz1055

【アイユーブ朝志列伝・武臣02】シハーブッディーン・ムハンマド・ブン=トクシュ・アル=ハリーミー(?-1178/9)サラディンの母方の叔父。シールクーフ死後、エジプト宰相に最も近い男であったが影響力の強い宰相を嫌った権臣たちがサラディンを押したため引き下がる。要所で聖戦に参加。

2012-03-27 17:20:09

>ザンギー朝がファーティマ朝の宰相シャーワルに乞われてエジプト遠征を行った際、ヌーリーヤ軍団に所属していたらしい(遠征軍の大部分はヌールッディーン直属のヌーリーヤ軍団とシールクーフ配下のアサディーヤ軍団からなっていた)。また、ニザール派は彼をサラディンとの交渉窓口としていた。1175年からハマーを領有しており、当地で十字軍の攻撃に耐えぬいた直後に死去。

匈奴の人 @toquzoguz1055

【アイユーブ朝志列伝・武臣03】アル=ムアッザム・トゥーランシャー(?-1180)サラディンの長兄。軍事能力はあったらしくイエメン征服を成し遂げ、またその際略奪を禁止した。イクター等を巡って何度かサラディンと問題を起こす。大量の借金を残して死ぬがサラディンはそれを全て引き受けた。

2012-03-27 17:30:09

>他にも黒人奴隷兵の反乱の際には鎮圧を指揮。酔っては弟のサラディンを悪しざまに言っていたというが、バハーウッディーンによれば、サラディン自身は兄を高く評価していたようである。

匈奴の人 @toquzoguz1055

【アイユーブ朝志列伝・武臣04】フサームッディーン・ルゥルー(?-?)アーディル指揮下の海軍提督。第三回十字軍のアッカ包囲の際に封鎖を強行突破し補給物資を届けるなどして活躍。彼自身は有能な海軍提督だったようだが、この当時の急造のエジプト艦隊そのものの能力は振るわなかった。

2012-03-27 17:43:32

>カラク城主のルノー・ド=シャテイヨンがヒジャーズの聖都を襲おうとした際に紅海へ艦隊を出撃させ、これを撃破している。地中海方面・紅海方面両方へ動いており、どうやらアイユーブ朝の海軍には優秀な指揮官が少なかったようである。

匈奴の人 @toquzoguz1055

【アイユーブ朝志列伝・武臣05】ファラクッディーン・スライマーン(?-?)アーディルの異父兄弟でおそらくサラディンと血の繋がりは無い。隊商の護衛の際にフランクに襲われ敗れた時に名前が見える。その後の消息は不明。

2012-03-27 17:54:45

>バハーウッディーンの『サラディン伝』に「アーディルの異父兄弟」という記述がある。サラディン伝である以上、サラディンと血の繋がりがあれば「サラディンの異父兄弟」という表現になるはず。

匈奴の人 @toquzoguz1055

【アイユーブ朝志列伝・武臣06】サイフルイスラーム・トゥクテギン(?-1197)サラディンの兄で恐らく次兄。トゥーランシャーの後釜としてイエメンを統治。イブン=ジュバイルの旅行記にも名前が出ており、メッカのアミールに圧力をかけていた模様。ちなみに彼の息子は彼の死後カリフを僭称。

2012-03-27 18:02:31

>彼の息子イスマイールはウマイヤ家の末裔を称してカリフを僭称したため部下に殺された。

匈奴の人 @toquzoguz1055

【アイユーブ朝志列伝・武臣07】イッズッディーン・ジュールディーク・アル=ヌーリー(?-?)ヌールッディーンのマムルーク出身でサラディンの部下。サラディンと行動を共にしており、有力なアミールの一人だった模様。サラディンの死の直前、彼の代理としてエルサレムに残された。

2012-03-27 18:21:36

>ザンギー朝の第三回エジプト遠征時に既に名前が見えるが、その後シリアに戻っていた模様。ハマーを守護しており、サラディン侵攻の際には城砦の明け渡しを拒否。交渉によって城砦の明け渡しは保留し、兄弟のアリーを城砦に残したままアレッポへ談判に向かうがそこで逮捕される。アリーはそれを聞き、サラディンに城砦を明け渡した。その後のサラディンのシリア侵攻時の消息は不明だが、最終的にサラディンに帰順したようである。

匈奴の人 @toquzoguz1055

【アイユーブ朝志列伝・武臣08】アブドゥルマリク・イブン=アル=ムカッダム(?-1188)もとはザンギー朝の幼君サーリフの後見人であったが、サラディン侵攻により政権を諦め、無血開城後服従。イクター領有についてサラディンと揉めるが不承ながらも同意、その後も忠誠を失うことは無かった。

2012-03-27 18:32:15

>トゥーランシャーがイブン=アル=ムカッダムの領地であったバールベックを要求した際に、「スルタンとの契約」によって授与されたものであるとしてこれを拒否。やむなくサラディンが彼を包囲したので、不承不承ながらバールベックを明け渡した。メッカ巡礼時にアラファートの丘にアイユーブ朝の黄色の旗を立てようとして他の巡礼団と衝突し、目に槍を受けて死去。

匈奴の人 @toquzoguz1055

【アイユーブ朝志列伝・武臣09】フサームッディーン・アブールハイジャー(?-1197)「デブのアブールハイジャー」として知られる。有力なクルド系アミールで、黒人奴隷兵の反乱や上エジプトのウルバーンの反乱の鎮圧などに活躍。アイユーブ朝継承戦争の最中に身の置き場を見つけられず死去。

2012-03-27 19:55:25

>ちなみに上エジプトのウルバーンの反乱時(1174)に彼の兄弟が赴任先で殺されている。1183年のサラディンのジャズィーラ遠征にも従軍、征服した街の一つをイクターとして授与されている。1189年のアッカ攻防の際には城内に送り込まれる。アイユーブ朝継承戦争で、イェルサレムから叩き出され、バグダードのカリフに招聘されるも現地で政争に巻き込まれ離脱、避難先を見つける道中で死去。

匈奴の人 @toquzoguz1055

【アイユーブ朝志列伝・武臣10】タキウッディーン・ウマル(?-1191)サラディンの甥。クルチ・アルスラーンの3000の兵を800騎で破り、十字軍との決戦ヒッティーンの戦いでも一翼を担っていた。ジャズィーラ地方へ遠征、街々を征服したが急病で死去。サラディンは大いに嘆いたという。

2012-03-27 20:29:25

>イブン・アル=アシールによれば対クルチ・アルスラーン戦は2万対1千だが、現代の史家によって数字が是正されている。ヌールッディーンと一触即発の状態になった時は断固開戦を主張してアイユーブに窘められる。イェルサレム征服後は岩のドームを何度も薔薇水で洗い浄めた。エジプトにシャーフィイー法学派のための学校も建設している。アフリカ方面の戦線でも活躍。

匈奴の人 @toquzoguz1055

【アイユーブ朝志列伝・武臣11】ディヤーウッディーン・イーサー・アル=ファキーフ(?-1189)ハッカーリー族のクルド人。アサディーヤ軍団の猛将で法学者にして高位のアミール。部下に信頼された指揮官であると同時にサラディンの顧問でもあった。ラムラの敗戦時やアッカ攻防等に参加。

2012-03-28 15:16:42

>シールクーフの部下で、彼によって領地を授けられたという。サラディンが宰相に就任した時、始めはヌーリーヤ軍団の誰もが従わなかった。しかし、彼がサイフッディーン・アリーをサラディン側に引きこむことに成功し、シハーブッディーンを説得できたので(「大勢は既にサラディンに傾いている上に、貴方はサラディンの叔父ではないか。サラディンが宰相になるのと貴方が宰相になるのとはそう違いがないでしょう」)多くがサラディンに服従を誓ったとのことである。ラムラの撤退戦では「最も獰猛に戦った」。イブン・アル=アシール曰く「勇敢にして気前がよく、忠義の益荒男であった」。イブン・アル=バズリーから教えを受けた法学者でもある。

匈奴の人 @toquzoguz1055

【アイユーブ朝志列伝・武臣12】ファーリスッディーン・アクターイ(?-1253)バハリ・マムルークの筆頭武将。サーリフ没時にトゥーランシャーを呼び寄せるためカイファまで走ったが、後に彼を殺害。その後アラブ遊牧民の叛乱鎮圧などに活躍したが、専横が過ぎクトゥズに暗殺された。

2012-03-31 15:05:14