共居=何気なく一緒にいる場を作ること、医者などの専門家をコマにする/コマにされるなど
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@spitzibara cf. アメリカで哲学講座の人気上昇中http://t.co/3MRMEJ3i 「学問としての哲学でも、よくある哲学学ですらなく、理屈で闘って人を論破するテクを身につけようという発想で」
2012-03-28 08:49:25@spitzibara 哲学が人気ってそもそもおかしなことだと思うんですよね。哲学は万人向きであるはずがない。哲学的問い(「宇宙は何であるのか。」、「善とは何か」とか)に取り憑かれた人だけのためのものです。そんなめんどくさい人はごく少数派だろうし、そうでないと世の中回りませんw
2012-03-28 08:58:33@acceleration ですよね。哲学流行りは単に「論理のゲーム」の流行だ、と私も。怖いのは、その流行りのゲームに乗っかっていると、いっぱし哲学的思考をやっているような優越感を得られ、実は大して深く考えてもいないのに分かったつもりで一定の方向に誘導されそうなことですね。
2012-03-28 09:02:30@spitzibara そもそも哲学は「問うこと」であり、答えを導くとかその答えを説得するとかは二の次のはず。そもそもそこで流行する哲学って本来の哲学と言うより「弁論術」「修辞学」(アリストテレス的意味で。ただし志が低いとソフィストのそれになってしまう?)ではないんでしょうか。
2012-03-28 09:08:19@acceleration 志が高い人はそれほどいないから、結局みんな「あー言えばこー言う」のレトリックばっかり身につけて、会話が最初からケンカ腰の勝ち負けをかけた闘いにしかならない。誠実な議論どころか対話にすらならない。一部の生命倫理学の議論って、そんな感じがします。
2012-03-28 09:15:04そう。言葉は万能ではない。”アシュリー療法”論争の初期に、シンガーのNYTの論考に反論して、「障害のある子ども達と、一定の時間、同じ部屋で過ごしてみてください。何もしなくていい、ただ共にいてみてください」と言った人がいた。論じるのではなく、身体で知るしかないことというのがある。
2012-03-28 09:17:14それに、人の言葉を聞いたり読んだりすることのすごさは、その時のやり取りや体験そのものではなくて、自分の中に引っかからせておくと、そこから何かがぐるぐると動き始めて、新しい気付きや自分の中の思考の飛躍など、思いがけないものを生まれてくることの方にあると思う。
2012-03-28 09:36:30本当は、そんなふうにじっくりと自分の中にあるいくつもの問いを、その痛みとともに抱え続けること。よいことも悪いことも含め自分の体験を栄養分に転じて育みながら、それらの問いと誠実に向き合い考え続けること。それが「哲学」なんじゃないかとシロウトのオバサン的には勝手に思っている。
2012-03-28 09:41:16「共居」を思い出しました(続く)@spitzibara そう。言葉は万能ではない。‥シンガーの論考に反論して、「障害のある子ども達と、一定の時間、同じ部屋で過ごしてみてください。何もしなくていい、ただ共にいてみてください」と言った人がいた。論じるのではなく、身体で知るしかない‥
2012-03-29 02:25:54@hijijikiki 続1)「学校という場で人はどう生きているのか」という本で、共居とは「人が何気なくたっぷりゆっくり一緒にいることから始まる」@spitzibara「障害のある子ども達と、一定の時間、同じ部屋で過ごしてみて。何もしなくていい、ただ共にいてみてください」
2012-03-29 02:29:34@hijijikiki 続2)また、それは「『たむろする』という言葉とも縁が深い」。カウンセリング・ルームなどはシステム化することによって、子どものニーズとずれていく。だから、何気なく一緒にいる場を作り、もう一度、教師と子ども、子ども同士が関係性@spitzibara
2012-03-29 02:32:55@hijijikiki続3)だから、何気なく一緒にいる場を作り、もう一度、教師と子ども 、子ども同士が関係性を取り戻すことを主張/●以上の引用は→http://t.co/G5Aa1S7D @spitzibara
2012-03-29 02:35:08@hijijikiki 「たむろする」というとあまりいいイメージじゃないですけど、無目的に共にいるということがキモなんですね。カウンセリングでは目的があるから「違う」し、システム化されることで子どもに対してどこかに強制的な力が働く。だいいち「共居」ではない。
2012-03-29 08:56:43そういえば我々夫婦の通った私学は当時ものすごく規模が小さい新設校で、ヘンに「ゆるい」ところがあった。中学の体育の授業では、女子は体育教官室でコーヒーを飲み、編み物をしながら男子が汗かいているのを高みの見物していたし、食堂では置いてある箱にお金を入れてお菓子買いたい放題だったし。
2012-03-29 09:00:40@spitzibara で、なぜか職員室とか図書室なんかが移動する学校でもあって、時に用途不明の空き部屋が出現する。すると生徒たちがその教室を勝手に占拠して誰が持ってくるのかソファまで並び、楽器や雑誌や食べ物が持ち込まれてサロン化する。誰でも入れるし、何をしても、しなくてもいい。
2012-03-29 09:04:04@spitzibara 雰囲気は、大学の部室みたいな感じかもしれないけど、部室のようなメンバーの限定すらなくて、ただ生徒が文字通り「たむろしている」部屋だった。そんな部屋が自然発生的にできて、学校側だって知っていながら放置していた。考えてみれば、のどかな時代だったのね。
2012-03-29 09:08:51@spitzibara で、私はというと、そのサロンには入りにくかった。何度か行ったことはあるけど、なんか馴染めなかった。”優等生”だったからね。「こう行動すべき」という規範がないところでは落ち着けなかったんだと思う。
2012-03-29 09:12:26@spitzibara あっ、「共居」って言葉、この本「学校という場で人はどう生きているのか」以外には出ていないかも。ってか、著者の浜田寿美男、佐々木賢、小沢牧子諸氏が使うのにはぴったりな言葉かと。
2012-03-29 21:05:55なるほど(続く)@spitzibara で、私はというと、そのサロンには入りにくかった。何度か行ったことはあるけど、なんか馴染めなかった。”優等生”だったからね。「こう行動すべき」という規範がないところでは落ち着けなかったんだと思う。
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