「大学は知の拠点たり得るか」~PRIMEシンポまとめ
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「明治学院大PRIME国際シンポジウム:原発危機下の分断を超えて――〈私〉とフクシマをつなぐ」会場に来ています。(明治学院大本館10階会議室)机がないので、同時報告は難しいな……。
2012-01-29 13:54:07最終セッションがこれから始まります。「原発危機と大学――〈知の拠点〉は存在しうるか」。報告は、塩谷弘康(福島大学)、小山良太(福島大学)、仁平典宏(法政大学)の三氏。コーディネータは猪瀬浩平さんです。
2012-01-29 13:57:22猪瀬さんからセッションの主旨説明。「大学が知の拠点であることを確認するのではなく、いったん白紙にして話をしていきたい。三人の報告者は大学にこもっているのではなく、地域に出て活動をしている。拠点とはなりうるかもしれないが。あるいはほかに拠点があるとしたら、大学との関係は」
2012-01-29 14:04:12猪瀬「明治学院大の取り組み。いろいろな手を打ったが学生への説明ができていたか。反省がある。日本の近代化のゆがみをふまえた問題意識を持って声明を出した。(※資料に含まれている)そのあと、4月に市民に開かれた講座や、学内向けの講座を展開してきた。」
2012-01-29 14:07:43講師の紹介。なお、会場には現在80人ほど。午前中あるいは前日で帰られた方もいると思います。塩谷さんのほか、フロアのほうにわたしと今井照さんがいます。
2012-01-29 14:10:30トップバッターは塩谷弘康さん(福島大学行政政策学類)。専門は法社会学。震災当時は学類長として、震災対応の指揮を執りました。2011年4月以降は震災対策室の中心メンバーとして活躍中。
塩谷「福島大学は、学生数4000人あまり、教職員が400人。人文社会系の3学部でやってきたが、法人化の際に4学類に。理工系が新設。3月当時は学類長の任にあった。退任したら研究をと思っていたが、震災でそれははたせなくなった。以下お話しするのはあくまでも個人的なこと」
2012-01-29 14:14:11塩谷「3.11,実は自分は和歌山に出張中であった。当日は大阪まで。一緒にいた同僚たちと話しで、同僚、学生の安否確認から。ワンセグでテレビを見て、情報を得た。真っ先に映ったのは宮城の津波の様子。帰省している学生が心配に。」
2012-01-29 14:16:29塩谷「翌日には東京まで、そこから車で福島へ向かった。大学そのものの被害は軽微。翌日は入試だったが、当然実施できなかった。13日、14日は大学構内立ち入り禁止。12日も含めて、地震の翌日、翌々日はほとんど大学が機能していなかった。」
2012-01-29 14:20:09塩谷「土日動いていなかったのは大きなミス。安否確認の指示が出たのは14日。(※市内職員会館で教員会議を開催)福島市内に放射性物質が降ったのは15日夕方から17日だが、その間はむしろ職員を中心に出勤を強いられた。交通時間がストップしていたので、徒歩で6~7時間かけて通勤も」
2012-01-29 14:22:50塩谷「教務課から学生カードをとりよせて、手分けして学生とコンタクトを。避難所の名簿を取り寄せたりもした。最終的に全員の安否が確認された。次の取り組みが、帰省支援。福島市内に残っていた学生を福島県から帰省させた。生活困難が長引くことを避けた。」
2012-01-29 14:26:29塩谷「親などが迎えに来てくれる学生はよかったが、動けないものもいた。大学執行部に言ってもらちが明かないので学類の判断。米沢のバス会社に依頼して、バスをチャーター。他学類の学生も乗せた。17~18日。原発の状況が悪化するなかで、独自に屋内待避の体制や避難の手立ても考えた」
2012-01-29 14:29:36塩谷「この間、大学当局は『原発に関しては政府の指示に従う』というだけ。その後、入学式や授業開始をいつにするかということが問題に。学類からは出勤等はリスクを考えて最小限にと申し入れ。このときには4月下旬スタートと決定された。」
2012-01-29 14:32:24塩谷「そんな中で学長メッセージが出された。まだ議論の途中で、しかも原発の状況が変わらないことを前提に出されたもの。手続き的にも問題があったか。」
2012-01-29 14:33:25塩谷「学類からはさらに、『授業開始は、大量の放射性物質の漏洩の可能性がなくなるまで待つべき』という意見書を。大学は文科省とやりとりをしたかはわからない。大学再開は地域社会への『安全』のメッセージになったところがあっただろう。」
2012-01-29 14:35:41塩谷「最終的に5月連休明けに大学再開が決定された。学類では学生対象に、メールで大学再開の意見聴取をした。意見はかなり割れた。46%の学生は大学再開に賛成。賛成理由もさまざま。卒業が不安とか、はやく友人に会いたい、福島の復興を考えたい、など」
2012-01-29 14:39:24塩谷「教員とのコミュニケーションも。職員は福島にとどまらなければならない力が強く働いたが、教員はそうではない。福島を離れた教員に対して批判の声もあった。」
2012-01-29 14:41:25塩谷「授業開始にあたって。さまざまな要望を出した。ただ学類間でも意見の相違があった。除染作業も必要だったが遅れた。相談窓口の開設、線量計貸出など。強く要望していたグラウンドの除染は11月までくりのべられた。」
2012-01-29 14:43:09塩谷「危機対応の評価。震災対応などをできてきたかというと、必ずしもできていない。危機意識が薄かった。大学独自での判断もできてない。現場を知らない霞ヶ関の指示待ちの状態。大学の態度としてどうか。専門家は大学にいないが、教職員学生の生命・安全を守る視点に立てていない。」
2012-01-29 14:46:08塩谷「大学当局の態度変更につなげられなかった、自分たちにも責任はある。三者自治といいながら、結局その原則に立った運営はなされていない。普段できていなかったということだろう。敗北感だけがつのる。そうはいっても困難な状況に立ち向かって行きたい」
2012-01-29 14:48:33二番目は小山良太さん(福島大学経済経営学類)。専門は農業経済学・地域政策論。農業や農村についての豊富な知識を活かして、震災以前から、「福島市屋台村いなGO」や「福大まちづくり株式会社 Marché F(マルシェ・エフ)」など、実践的な地域づくりに取り組んでいます。震災後は、二本松市の旧東和町地区や伊達市小国地区での農地汚染対策にかかわってきました。
小山「行政政策は14日に教員会議をしていたが、経済は線量が上がった15日以降にやっていた。予防原則を考えたら行政政策でやったような学生避難もあたりまえなのだが、大学は業務命令で職員を出勤させていた。」
2012-01-29 14:53:07あとでうかがいましたが、小山さん、このとき当時のことを思い出して、かなりぶち切れていたらしいです。