モーリス・ブランショ BLANCHOT 2012
- HAYASHI_twit
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1941年の初版本「謎のトマ」が中央公論新社の登張様が出版して下さる事になりました。もう印刷されました。1回目のチェックもすみました。「明るいはみ出し」のチエックは私がしているのでなかなか進みません。介護と家事の合間では大変です。主人は知人の方のことを何でも書くので 大変です。
2012-01-21 20:30:38レヴィナスとバタイユは『謎の男トマ』(初版)のまったく同じ箇所を引用している。レヴィナスは『実存から実存者へ』の〈ある〉の夜の説明として、バタイユは『内的体験』の非‐知の夜の説明として。レヴィナスのil y aとブランショの関係は上田和彦『レヴィナスとブランショ』水声社に詳しい。
2012-03-21 22:30:57シナの長城は、その建設者たちによって完成されはしなかった。シナの長城に関する物語もまた、カフカによって完成されはしなかった。挫折という主題にたいして、作品そのものが挫折する。カフカは書かずにはおれないのだが、しかしまたこの書くという行為が、彼に書くことを阻むのだ。(ブランショ)
2012-04-15 20:26:29「無感動とは、至上者であることを選んだ人間に適用される否定の精神である。それは言ってみれば、エネルギーの原因でもあり原理でもある。」(モーリス・ブランショ)
2012-04-26 01:06:33Je n'imaginais pas un décor si lumineux à Blanchot http://t.co/4JtQQpkh.
2012-04-30 02:25:56ニーチェ、バタイユ、ブランショにおける経験は、主体を主体自身から引き剥がす機能を持っている。主体が自分自身で無くなってしまうか、自分の無化ないし解消へと向かうようにする機能を持っているのである。それは脱-主体化の企てなのだ。-M・フーコーとの対話-
2012-05-02 22:55:46ニーチェ、バタイユ、ブランショの読解から得られた、主体を主体自身から引き剥がす限界経験という観念。これこそ、私をして常に自分の書物を、私自身から引き剥がすための、同じ者であり続けることを妨げるための直接的経験として構想させてきたものなのだ。-M・フーコーとの対話-
2012-05-03 04:55:40レスリー・ヒル『モーリス・ブランショと断章的エクリチュール』 at 2012年5月 Maurice Blanchot and Fragmentary Writing: A Change of Epoch by Leslie Hill http://t.co/LaehY0R5
2012-05-03 21:47:06ニーチェ、バタイユ、ブランショは、1950年代のはじめ、大学において私の形成過程を支配した者たち、即ちヘーゲルと現象学から、私を解放してくれた著者たちである。-M・フーコーとの対話-
2012-05-05 13:55:43ニーチェ、バタイユ、ブランショらは私に取って何を代表していたのか。1.主体という範疇、その優位、その創設的機能を問い直せという招待。2.ただしそうした作用が思弁に限定された場合は、それが何の意味も持たないだろうという確信。-M・フーコーとの対話-
2012-05-05 17:55:40一方で、私の先生たちのような哲学史家のようにはならないということ、他方で、実存主義とは全く異なるものを探すということ。これが、バタイユとブランショ、更には彼らを通じてのニーチェの読解(から私が選択し熟成させたもの)だった。-M・フーコーとの対話-
2012-05-08 00:55:40ブランショがある種の「精神的」生の基盤を定めるのを耳にした。「救済の欠如の中にしか、あらゆる希望の放棄の中にしか、その原理と目的とを定めることができず、内的体験については、それが一つの権威であるとしか確認できず、自分自身の異議への投入であることしか、非-知であることしかできない」
2012-05-08 16:06:486月10日に夫婦自伝物語「明るいはみ出し」 6月13日にモウリス:ブランショの「謎のトマ」と2冊本が出版予定です。主人は今「謎のトマ」のゲラを必死で見ています。手が不自由なのでいろいろ物が机から落ちたりいろいろ大変です。殆どつききりでいないと作業が進みません。先が心配です。
2012-05-10 12:32:00モーリス・ブランショ『謎のトマ』が中央公論新社から篠沢秀夫訳で近々出るとは! 奥様の礼子さんのツイッターとブログで知った。http://t.co/HmR5HldQ
2012-05-11 19:44:27ブランショ『謎のトマ』初版は中央公論新社と月曜社の2種類の邦訳が出版されることになるのか…。『終りなき対話』などのブランショの評論はなかなか邦訳されないのに、小説作品のほうはこれまでにも『至高者』『期待 忘却』が2種類出ているという状況は、ちょっといびつな印象も受けてしまう…。
2012-05-11 21:17:41発話主体がまず存在して、それが何かを発話するのではない。発話主体は発話という行為の事後的効果なのである。 「作家は作品のあとにはじめて存在し始めるのである。」モーリス・ブランショ
2012-05-12 13:09:38デリダ『モーリス・ブランショが死んだ』の一節、"Or le neutre, ce que Blanchot nomme ainsi, se situe avant et au-delà de cette différence entre l'être et l'étant..."
2012-05-15 01:12:12カフカにはユーモアがある、アポリネールには明るさと無邪気さが、ドストエフスキーには二重性、ブランショには表しえぬものへの挑戦が。
2012-05-15 01:12:48