崇徳語りまとめ

崇徳院の生い立ちや怨霊伝説などについてです。崇徳院「少しでも興味を持ってくれたら嬉しい…」
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幸村(むらっち) @ykmr_msnr

では始める。まずは私の生きた時代の説明といこうか。私が生きた時代は平安時代後期。一般的に中世の始まりと考えても良かろう。武士が台頭し始める頃だ。源氏と平家も有名だな #崇徳語り

2012-05-20 18:21:05
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

私が生まれた頃は私の曽祖父である白河院が院政を行い、独裁的な政治を行っていた。院政とは、退位した天皇が上皇となり、即位した嫡子、もしくは嫡孫である天皇に代わり、上皇自身が政治を行う事だ。ちなみに上皇が出家し仏門に入った時には法皇と呼ぶ #崇徳語り

2012-05-20 18:26:03
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

簡単に言えば、天皇はただ即位して天皇と名乗るだけで政治はあまり行えなかったのだ #崇徳語り

2012-05-20 18:27:01
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

私が生まれた時は父・鳥羽天皇が天皇であったが院政によって政治はほぼ白河院が行っていた。それを父上はとても悔しく思っていただろうな #崇徳語り

2012-05-20 18:30:16
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

そんな中私は生まれた。諱を顕仁(あきひと)として生を授かったが、そんな私を父は忌み嫌っていた #崇徳語り

2012-05-20 18:31:08
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

「古事談」という書物によると、私の母で父上の中宮・璋子は養父である白河院と密通して生まれた子が私であると記されている。故に父は私を「叔父子」と忌み嫌っていたのだ #崇徳語り

2012-05-20 18:35:34
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

父に疎まれて私は育つ。そしてわずか5歳で皇太子になり、同年に父から譲位され天皇となった #崇徳語り

2012-05-20 18:40:09
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

私が天皇となってから6年後、曽祖父・白河院は崩御。代わりに父・鳥羽院の院政が始まった。院政開始後に父は藤原得子を寵愛するようになった。そして得子は私の異母弟で体仁(なりひと)を生んだ #崇徳語り

2012-05-20 18:43:15
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

その体仁は私の中宮・聖子の養子となる。そして父は私に体仁に譲位する様に迫った。申した通り、体仁は私の養子。皇太子として譲位させれば私が院政を行える。そう思った #崇徳語り

2012-05-20 18:46:02
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

だが事は思い通りにはならない。譲位宣命の文が読まれた時、体仁は「皇太子」ではなく「皇太弟」として即位させられたのだ #崇徳語り

2012-05-20 18:47:54
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

先ほど言ったように、院政が行える条件は天皇が嫡子か嫡孫のみ。弟が天皇では院政は不可能であり、私は実権がないまま上皇となり、父の院政が続く結果となった #崇徳語り

2012-05-20 18:49:11
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

上皇となった私はひたすら和歌に没頭し始め、歌会を多数催したり、和歌集を撰集させる。そして父も表向きは私に鷹揚な態度で接し、私の嫡子である重仁を得子の養子にさせたりした。体仁である近衛天皇が崩御した場合、重仁への皇位継承も可能になる #崇徳語り

2012-05-20 18:53:18
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

しかし、病弱だった近衛天皇はわずか17歳で崩御してしまう。その際に次の天皇を決める会議が開かれる。勿論私は参加など出来なかったぞ…(くっ #崇徳語り

2012-05-20 18:55:01
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

私の嫡子・重仁が最有力候補であったが得子のもう一人の養子・守仁が即位するまでの中継ぎとして私の弟である雅仁が後白河天皇として即位。またしても私は院政する機会を失った訳だ #崇徳語り

2012-05-20 18:56:45
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

そして間もなく父が病に倒れる。私は父の見舞いに訪問したが面会は出来ずに、父は崩御してしまう。ここに父の院政が幕を閉じた #崇徳語り

2012-05-20 18:59:45
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

しかも父は自信の遺体を私に見せない様にと言い残していたらしい。せめて御遺体だけでも見舞いたかったのに… #崇徳語り

2012-05-20 19:02:13
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

その後私は政権を我がものにする為左大臣で悪左府と呼ばれた藤原頼長と結託し武士を集めた。それに対抗して後白河天皇も武士を集める。そして私達は対立を深め衝突。後に言う「保元の乱」だ #崇徳語り

2012-05-20 19:05:34
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

しかし私の元に集まった武士は少なく、私は子の重仁の後見人の息子であり、当時武士の中で力を持っていた平氏の棟梁・平清盛が味方になる事に望みをかけた。しかしその望みは叶わず清盛は天皇方へ味方した。私は奇襲をかけられその後行方をくらませた。つまり…私は敗北した #崇徳語り

2012-05-20 19:09:17
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

その後私は讃岐へ配流される。讃岐で生活している間は仏教に専念し、己の血で五乗経を写本して寺へ収めてもらおうと都へ送った。しかし後白河は「呪詛が込められているのではないか」と疑い、それらを送り返してきた #崇徳語り

2012-05-20 19:15:10
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

これに私は激しく怒り自分の舌を噛み切り、それで出た血で送り返された写本に「日本の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」などと言って私は怨霊となった。これは私の生きながら天狗や怨霊となった説 #崇徳語り

2012-05-20 19:18:19
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

怨霊とか抜きでの私の結末は、病に冒され京に戻れずに46歳で崩御したとある #崇徳語り

2012-05-20 19:20:06
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

私の死後、平家滅亡、武士の世の訪れなどが原因で天皇の政治は行われず、幕府での政治、武士の政治が行われる様になる。私の祟りかどうかは不明だが、私が言い残した言葉を思い浮かべると信憑性はあると思われる #崇徳語り

2012-05-20 19:23:06
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

怨霊と語られる一方、讃岐では四国全体の守護神と語られているようだ #崇徳語り

2012-05-20 19:24:21
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

あとは、私が祀られている白峯神宮だな。これは京都にあり、明治天皇が即位の礼を執り行う際に讃岐へ勅使を使わして創建したものだ #崇徳語り

2012-05-20 19:28:10
幸村(むらっち) @ykmr_msnr

怨霊が神として祀られ、怒りを鎮められるのはよくある事でな。かの学問の神様の菅原道真もそうだ。これに習って私の死後の平安時代などでも祀ろうとしたらしいがうやむやになり、祀られなかった。そう考えると何百年も後にやっと建てられるのは遅いだろう #崇徳語り

2012-05-20 19:30:43