現代美術家の宮島達男氏が説明する、ドローイングやデッサンの重要さ
- JORA_JORAEMON
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急な案件を処理、一路山形へ。ところで、この数日、過去35年にわたる古いドローイングを整理。結論、「ドローイングはどんなものでも取っておくこと」。なぜなら、それは、作家の思考、時間、感性の軌跡がリアルに、手に取るように分かるから。少し、ドローイングについて書いておく。
2012-06-05 14:10:231) 普通、ドローイングは作家がモノに対峙したその最初から最後までのプロセスを一枚の画面で見せてくれる。ドローイングはあまり、消したり、描き直ししたりしないから、彼のダイレクトな息遣いや何を見ようとしたのかが良く分かる。だから作家研究にはドローイングが一番だと思う。
2012-06-05 14:23:382) ミケランジェロのドローイング「後ろを振り返る男」。大英博物館の本物は写真で見るのと大違い、格闘の跡がクッキリ見える。特に、捻じれた腰のあたり、カタチが入り組んで難しい。何回もカタチをとり直し、線を重ねる。だから、そこだけ真っ黒。絵としては破綻している。でも、なぜか泣ける。
2012-06-05 14:46:093) よく見ると、黒い腰の線から光が!そう、あんまりペンでグリグリと描いたので、終いには紙が破け、光が透けて見えてしまったのだ。このように、ドローイングは、向こう側まで突き抜けようとする彼の魂まで、触れるほどリアルに感じさせてくれるもの。
2012-06-05 15:05:464) ニースの「マチスの教会」のキリスト像はドローイングで描かれている。その軽ろみと温かみのある愛しい線は、何回も書き直され、最終的に選ばれた線だ。一般に、ドローイングの線は速描きの印象があるが、本当に凄い線は、実は、ゆっくり描かれていることが多い。マチスもゆっくり線を引く。
2012-06-05 15:39:285) ドローイング力を鍛えるためにはデッサンが有効。モノを線に置き換える訓練だ。対象は石膏でなくてもいい。若い頃は常に小さなスケッチブックを持ち歩き、どこででもデッサンした。目と脳と手が一体になるまで。それは技術というより、自分を殺し、無私になる我慢強さが身についたように思う。
2012-06-06 09:18:006) デッサンは意志も鍛えられる。昔、石膏デッサンで背景の壁が、どうやっても手前にでてきてしまったことがあった。「奥へ行け!」と木炭で描かれた壁を押し続けた。で、行った!魔法ではなく、手で押すことで木炭の調子が微妙に変化、奥に引っ込んで見えたのだ。意志が技術を超えることを学んだ。
2012-06-06 15:29:307) 「現実に似せる」ことなんか意味ない。若い頃は私もそう考えた。しかし、ピカソやモンドリアンがそうであるように、モノに肉薄する訓練を積んだアーテイストは、その後どんな展開をしようが、リアルから離れないし、地に足が着いた作品を生み出している。見続けた時間は決してウソをつかない。
2012-06-06 16:00:218) だから、今でも「本当に見よう」と思う時はデッサンをする。アンコールワットやマチュピチュ遺跡は何時間も座ってスケッチブックに描いた。カメラで写せば手っ取り早いけど、それでは「凄い!」と思えた原因にまでは決して届かない。「本当に見る」とは理解することだからだ。
2012-06-06 16:23:049) 対象を理解するプロセスを表すドローイング。それは補助的な「練習」の範疇を超え、今や「作品」として成立し始める。ケントリッジの動画やデユマスの人物像、サイ・トゥオンブリーの絵画がそれだ。共通するのは、完成していないこと。生で動いている感じ。本質を探している感じだろう。
2012-06-06 16:56:1710) そう考えると、ドローイングやデッサンは、アーテイストが「見ようとした事の証」であるし、リアルな「生の証」そのものではないか。それが、シンプルな道具一つで出来る。きっと「見ようとするもの」がある限り死ぬまで続けるのだろう。(了)
2012-06-06 17:05:26