主人公によるヒロインの救済について
ところで。ヒロインが悲劇的状態に陥ってるのを主人公が助けるという類型の恋物語は結構ありますし、それゆえに主人公はヒロインが悲劇的状態に陥っているなら助けなければならないというドグマが立ち現れがちな件について、少しメモなど。
2012-06-14 16:58:38主人公によるヒロインの救済は、必ずしもヒロインが陥っている悲劇的状態を解消するためにパターナリスティックな権力を行使するという形にとどまりません。主人公がヒロインのそばにいることに寄って支えられる、それどころか傍にいようとすることによってすら支えられる場合もままあります。
2012-06-14 17:00:57主人公によるヒロインの救済は、必ずしもヒロインが陥っている悲劇的状態を解消するためにパターナリスティックな権力を行使するという形にとどまりません。主人公がヒロインのそばにいることに寄って支えられる、それどころか傍にいようとすることによってすら支えられる場合もままあります。
2012-06-14 17:00:57つまり、救いにおいては、問題を解決する必要も、そこにおいてヒロインに家父長的権力を行使して隷属させる必要も、必ずしも存在しないわけです。救いとは多義的な形で立ち現れるといえるでしょう。にも関わらず、主人公がヒロインを救ったといえるのは、主人公がヒロインとコミットしているからです。
2012-06-14 17:04:26このコミットは常に親密な形であるとは限りません。主人公とヒロインが引き離された場所にある、あるいは主人公がすでに存在しない、というパターンもありえます。
2012-06-14 17:07:05それでもなお、主人公がヒロインを救ったといえるのは、かつてコミットされた記憶、今コミットしてあるという事実、そしてこれからコミットされるだろう希望、そうしたものがあるからといえるからですね。コミットは時空間的に延長され、可能性の中にも見いだせてしまう、そういう多義的なものです。
2012-06-14 17:13:20そこまで多義化したコミットも、しかしその運動の核となる「主人公」の「コミットする意思」と、コミットされる「ヒロイン」がなければ発生しないので、つまり主人公とヒロインの関係にその運動の軸は収斂します。主人公がヒロインを救うには、主人公とヒロインが関係しなければならないのです。
2012-06-14 17:17:39ですので、ヒロインを救うということを、ヒロインの問題の解決や、ヒロインの問題を肩代わりという形に矮小化してしまうような議論については、自分は懐疑的です。さらには、これを等価等質の交換でなければならないとする考え方については、自分ははっきりと否定的です。
2012-06-14 17:20:28なお、これは主人公がヒロインを救うという物語類型についての話なので、そもそもそういう話が嫌いだという人は華麗にスルーしていただいて結構です。
2012-06-14 17:22:02「主人公がヒロインを救う」という物語のコンスタティブな形は先述のとおりですが、これをパフォーマティブに開くと「主人公はヒロインを救わなければならない」という話になります。しかしそれはあくまでそういうひとつの要請でしかありません。この要請をドグマとして内面化する必要はないのです。
2012-06-14 17:26:58たとえば「喉が渇いた」と誰かが云った時、そのパフォーマティブな呼びかけは「水を持ってきてほしい」ということになりますが、ぼくたちはそれをしてもいいし、しなくてもいい。そういうことです。
2012-06-14 17:28:27にも関わらず、ヒロインが悲劇的状態に陥っている=パフォーマティブに云えば救いを求めている状態において主人公がその求めに応じコミットするのは、メタに云えば物語的要請、彼の主観的視点ではその訴えに応ずる気持ちが彼にあるからです。そゆ要請も気持ちもないなら、コミットは生じないわけです。
2012-06-14 17:32:52ちなみにここでは主人公を主体として扱いましたが、無論ヒロインを主体とし、客体的な主人公に拠っていかに救われるかという議論をすることは可能です。そしてそれが、主人公がヒロインを救うという一方的で矮小な構図を脱却していく契機になることも十分に可能だと思います。
2012-06-14 17:40:06前後しますが、ヒロインが救いを求めていることに対して主人公は応答責任を持ちます。その訴えにいかなる形で応える/応えないかも、主人公の応答責任として定義され、主人公を縛ることになります。そしてそこで救いを求めるものに応答しないという態度をとることは、通常非倫理的とされます。
2012-06-14 17:42:44主人公がヒロインとのコミットをする動機の中に、この「応答責任と倫理的批判」を付け加えるべきかもしれません。そしてそれは、人間が生きていくにおいて、常に直面してしまう問題です。「沈黙もまた答えです」とナウシカが云ったように、問いかけにはかならず答えとそれへの評価がつきまとうのです。
2012-06-14 17:46:22しかしそれは、コンスタティブには「問いかけには答えが存在し、その答えは他者によって評価される」という事実関係でしかありません。パフォーマティブに開いた時「問いかけには真摯に答えなければならない」という規範として立ち現れますが、それはけして絶対的なものではないと思います。
2012-06-14 17:51:23なぜならパフォーマティブな言説というのは多義性を持ったもので、必ずしも一意に収斂するものではないからです。その上で、ヒロインの悲劇的状況からパフォーマティブな「救済の要求」を読み取り、そこへコミットしようとする主人公の主体性が再び問われることになってくるわけです。
2012-06-14 17:53:10なぜならパフォーマティブな言説というのは多義性を持ったもので、必ずしも一意に収斂するものではないからです。その上で、ヒロインの悲劇的状況からパフォーマティブな「救済の要求」を読み取り、そこへコミットしようとする主人公の主体性が再び問われることになってくるわけです。
2012-06-14 17:53:10そしてその前提として主人公は「ヒロインのパフォーマティブな問いかけを問いとして見いだせる程度には、すでにヒロインとコミットしている」状況にあります。
2012-06-14 17:58:03パフォーマティブな救済の呼びかけを読み取るために必要な初期コミットと、それに対する応答によって、救済へのコミットが発生し、そしてそのコミットの仕方によって様々な形で救済がもたらされる、というふうに整理できる。主人公がヒロインを救済するというのは、まあそういうことです。
2012-06-14 18:08:27