『類別克服法』編集会議(身体均整師会)
下線部が今日の追加です、 「はじめに」はこれで全部。 次はうっかりとばしていた小関先生の「はしがき」をおこそうと思ってまーす(・ω・)ノ →矢野先生版『類別克復法講座集』(小柳 http://t.co/birJ9Rqgb5
2013-03-05 12:12:25#ruibetu 類別のテキストについては櫨山さんがすべて入力済みでデータがあります。幾箇所かに届いているはずですが、探してお送りします。突っ込みに専念してください。
2013-01-15 01:07:10#ruibetu この踏み込みを解きほぐす糸は多々あります。児玉本105P.には仮性内臓病に関係して肋間神経と交感神経の吻合に触れ、肋間であることの意味が示されています。ガンステッド派のカイロプラクティクでは交感神経への刺激が重視さえてきました。
2013-01-14 12:41:51#ruibetu たとえば胸椎部の刺激部位は、9割8部まで「関節突起の外縁、あるいは横突起(肋骨結節下縁)」とされています。これは具体的にいうと肋間の神経根に最も近い部位をさしています。児玉本では圧迫機によって棘突起の側を圧迫と説明されています。
2013-01-14 12:41:31#ruibetu 刺激点にも同じことなりたちます。類別と児玉『脊髄神経反射』では、刺激原理・作用の捉え方は共通にもかかわらず、刺激の部位に手技療法にそくしたかなりの具体性が追加されているのがわかります。
2013-01-14 12:41:15#ruibetu 指先による観察の技術は、スポンデロテラピーよりもむしろカイロプラクティクやオステオパシーに基づいています。たとえば冒頭には椎骨の細かな解剖学的位置が図示されています。実際の刺激法を見れはこれらの解説が不可欠なことがわかります。
2013-01-14 12:40:59#ruibetu 一方、エイブラムスの紹介たる児玉『脊髄神経反射』では圧迫器による圧迫、木槌による打撃、通電、皮下冷却など器具による機械的刺激です。大きな相違点があるとすれば手技療法には指先による観察という手続きがあることです。
2013-01-14 12:40:48#ruibetu そこで問題となるのは刺激の具体性です。類別は部位による拮抗性、機能の亢進・抑制、臓器の拡張・収縮など、エイブラムス『スポンデロテラピ』の論理的な枠組みを守っていますが、刺激の方法はあくまで手技療法です。
2013-01-14 12:40:32#ruibetu これらを具体的に読み解くためにいくつかの基礎作業が必要です。まず類別で「③両立せぬ克服上の基礎」が強調されたのは、児玉『脊髄神経反射』の影響です。エイブラムスの見解は器械的な刺激への臓器の反応の実証的な研究にもとづいています。
2013-01-14 12:40:19#ruibetu 亀井先生がそのような立場から手技療法の科学を考えていたことは、わたしたち自身が発掘し、本来的な可能性を開花させなければならないと思います。原敏男氏の反論に亀井先生が「思わぬ拾い物をしたかもしれない」と投げ返すには、それなりのバックボーンがあったのです。
2013-01-14 12:39:59#ruibetu フッサールの現象学はそのことを予見し、現実に熱現象のような物理現象が観察能力の進歩によって、カオス(ローカルルールとグローバルルールの多様な関係)を含むことを導いてきました。薬理学においても情報科学的な捉え方ではなくカオスが問題とされるようになってきました。
2013-01-14 12:38:59#ruibetu 手による経験は、デカルト的な数値化がそもそも乗り越えようとした感性的な情報の山を作り出します。その一方、21世紀の今日、手と脳の能力が、既存の科学的な計測方法をはるかに凌駕していることが、「科学的」な立場にたつ人によってはっきりと理解されるようになりました。
2013-01-14 12:38:12#ruibetu 類別克復法を読み解くに際し、どのような目的意識に立った地盤工事なのか、わたしには最初に押さえておく重要な点と思われます。亀井イズムにおちるな、運動系について整理解剖についてよく勉強しなさいという言葉が発せらなければならなかった基本的な立ち位置があったと思います。
2013-01-14 12:37:46#ruibetu ヒュームの立場は「何も知りえない」という懐疑論へ向かいました。20世紀初頭、プラグティズムやフッサールの現象学は、進歩する物質科学と心理学主義の断絶を超えようとする学問的営為でした。亀井先生が「事実に馳せ参じて」と強調しているのはこのことを下地にしています。
2013-01-14 12:32:48#ruibetu しかし、モノ自体の因果性を本当に知ることができるのかという根本的な問いがたえず発せられてきました。とくにイギリス経験論(ロック、バークレイ、ヒューム)です。とくにヒュームはものごとの「明らかさ(明証性)」が、経験の「直接性」抜きにありえないことを指摘しました。
2013-01-14 12:19:34#ruibetu 物事が起こる背景には因果性がある、常識にわたしたちはそのように考えていますが、科学研究ではそのような立場が極端な姿であらわれます。絶対に間違いのないとされる確かな因果性を足場に、いくつもの推論をくみ上げて、事実のなかの「真実」をあきらかにしようとします。
2013-01-14 12:19:09#ruibetu 一般的な科学の方法とは出来事の持っている感覚的な印象に惑わされないように数値化する、現象の数学的な関係を捉える(デカルト『方法序説』)ことにあります。亀井先生は、これに反してそこに事実にはせ参じて直接に知見をうることを強調しています。
2013-01-14 12:17:26#ruibetu これらは並列する異なる見解ではなく「操法並びに操作点」の科学的発展と捉えるべきと思います。臨床的にはとてもよく理解できる点だからです。ここに「事実にはせ参じて」というフッサール的問題が大きな意味を持っているように思います。
2013-01-14 11:26:44#ruibetu 類別では、それぞれの項にかならず「③両立せぬ克服上の基礎」が整理され、胃ではD5~8とL2は「同一刺激をもちいてはなりません」と強調しています。特殊奏法の記述が「特殊なる克服法を別冊にした」とする意味がよくわかります。
2013-01-14 11:26:24#ruibetu たとえば幽門閉止痛。類別ではD7<kにつづいてL2<yとされていますが、特殊奏法ではD7<yとされていて、ぐる音がすれば開通すると記録されています。ただし、言葉の上では「抑制」とは表現されおらず「静止しておれば」となっています。
2013-01-14 11:26:08#ruibetu この点に留意することで類別が土台工事、地盤工事とされた意味がよく理解できます。たとえば『特殊奏法』は同時期の著作ですが、別個に類別矛盾克復法が採録されています。両者の間には内容が異なるものがあります。
2013-01-14 11:25:52#ruibetu この講演はとても重要な意味をもつと指摘してきましたが記録が残されていません。ただ残された史料から考えると、「操法並びに操作点」の知見を導く方法自体が科学的という着想を生かして身体均整法が作られたと考えるのが自然だと思います。
2013-01-14 11:25:36#ruibetu 亀井先生は科学的療術は「操法並びに操作点」の知見を導く方法自体が科学的でなければならないと強調しています。当時、高知でおこなわれた療術技術学会で来賓として出席した亀井先生は『身体均整法への道』と題した講演をおこなっています。
2013-01-14 11:25:11@yuri21a そしてみんなで力を合わせててんこ盛りなやつを成し遂げましょう*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*
2013-01-07 00:18:03