- toquzoguz1055
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▼――――注意――――▼
あー、ちなみにこれは「こう見るとわかりやすい」という話であって、イコールでつながれると困る。当然ながらイスラーム圏はイスラーム圏で独自の歴史を歩んできているので、叩き台にはなるだろうけどこれはまったく本質ではない。
2012-07-15 22:15:47▲――――注意――――▲
源氏の得た「征夷大将軍」号が後々の幕府に引き継がれていくように、セルジューク家の得た「スルタン」号は後々の政権郡に引き継がれていくのだ(※ブワイフ家は「大アミール」)
2012-07-15 21:09:10平家が京に入って文化の爛熟期を醸成したように、ブワイフ家はアッバース家のいたバグダードで詩人や科学者を保護した。一方、坂東の健児が多かった源氏と同じように、セルジューク家はトルコ系であって騎射を得意とする騎馬の民で尚武を旨とし、その政権の中枢は決してバグダードには置かなかった。
2012-07-15 21:11:30■アッバース朝と日本の朝廷
当初、アッバース朝は政治の中心であり統治の権限を持っていたが、ブワイフ家のバグダード入城によって権威だけを残して実権を奪われる。
これは、平家によって実権を奪われようとした朝廷に通ずる。
■ブワイフ家と平家
ブワイフ家はイラン系の武家政権。文化的に成熟していた。
■セルジューク家と源氏
セルジューク家はトルコ系の武家政権。バグダードには政権の中枢を置かなかったのは、頼朝が京都ではなく鎌倉に本拠を構えたのと通ずる。
さらに、朝廷のあった都、平安京という名前だが、アッバース家の本拠地、バグダードの正式名称はマディーナ・アル=サラーム(直訳すると平和の街)であり、その意は偶然ながら通ずるところがある。
2012-07-15 21:12:50鎌倉幕府の末期に朝廷が実権を取り戻そうとしたように、アッバース家もまたセルジューク家の衰退に乗じて実権を取り戻そうとしている(これは拙作『円城太平記』で書きました)。
2012-07-15 21:16:05あと、セルジューク朝の幼少の君主の後見人にトルコ語で「アタベク」と呼ばれる連中がいるが(直訳すると父侯)、彼らは見立てれば執権と言えなくもない……が、ここまでくると流石に無理やり感が漂う;
2012-07-15 21:29:22アタベクの中にはアタベク位の世襲を決め込んじゃって、本来の主筋であるセルジューク家の被後見人が死んでも「アタベク」を名乗り続ける家が出てきて、これがまさに北条得宗家に近い。特にアタベクの中で有力だったのがザンギー家。
2012-07-15 21:56:16(ただし、ザンギー家はあくまでアホほど強力な地方政権という立場にとどまってて、全国的な影響力は無かったのでこの点は北条得宗家とは異なるので注意)
2012-07-15 21:57:53時期が若干ズレるにしろ日本と中東で全く違うのはモンゴル侵攻に対してどうなったかで、日本は日本海の存在や武士の活躍もあってモンゴルを退けたけど、中東はボコボコにやられて朝廷たるアッバース家も滅亡、シリア以東は完全に占領されてしまったところ。
2012-07-15 21:18:39▼――――「御家人制=封建制=イクター制」?――――▼
例えば中東のイクター制と日本の御家人制はともに西洋の封建制に類するものとして扱われた過去があるが、実際はどちらも封建制とは全く違う独自の制度だ(という説が有力……多分。少なくともイクター制に関してはこれをイスラーム封建制と見る見方は払拭されつつある)
2012-07-15 22:20:14一つに、初期のイクターは徴税権のみで行政権は付随していなかった。二つに、行政権が付随するようになっても一部の例外を除けばイクターの世襲は行われなかった。
2012-07-15 22:29:24↑なので、当然イクター制は御家人制とも異なる。
また、イクターは軍事イクターのみではなく、文官に与えられるイクターも存在した
この一連のツイートで中東史に興味を持った方がいたらもし良かったらこれも佐藤先生の本だけど、初学者向けの『イスラーム世界の興隆』という本があるので読んでみてネ
2012-07-15 22:34:49さらにもし『イスラーム世界の興隆』を適当にめくってみて「学者の書いた本なんぞややこしくて読めるかー!!!」って人は牟田口義郎さん(この人はジャーナリスト出身)の『物語 中東の歴史』がおすすめです。中公新書から出てます。
2012-07-15 22:37:48