山本七平botまとめ/「知にかかわる」面が皆無な”信念の人”/~なぜ反原発教徒と知的討論に基づく判断の変更・合意が成立しないのか?~
- yamamoto7hei
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1】【「信」の肥大化と民主主義】前略~地動説のゆえにガリレオが無期刑に付され、ジョルダーノ・ブルーノは処刑されたが、コペルニクスは別に何の迫害も受けなかっただけでなく、終生、彼は聖職者であり得た。これは大変に面白い問題である。理由は何か。<『日本人と組織』
2012-07-22 18:20:562】もっとも彼は、その説を発表した少し後で世を去ったから迫害にあわなかったともいえるが、当時は、世を去った者の墓を据りかえしても、異端には異端を宣告して骨を焼き捨てた時代だから、問題になるなら、完全に不問ということはあり得ない。
2012-07-22 18:58:163】この点で案外に見のがされているのが、地動説がそれを唱えた人にとって、その人の「知にかかわる問題」か「信にかかわる問題」かという点なのである。コペルニクスは…これをあくまでも一仮説として、純粋に自己の「知にかかわる問題」で「信にかかわる問題」ではないという前提で発表した。
2012-07-22 19:21:014】いわば、討議によって自由に改訂・変更できる問題であって、知的討論では改訂し得ない「信にかかわる」問題として発表したわけではないのである。ここに当時のカトリック集団という一種の模型型神聖組織の内部における「知にかかわる問題」の取り扱い方が示されている。
2012-07-22 19:58:365】そしてそれが「信」に関係ない場合、不問であって不思議ではないわけである。したがって、その集団がどのようなタイプかを知るには、同じような問題を探ってみればよいわけである。
2012-07-22 20:21:006】【「信教の自由」と「言論の自由」】…民主主義――特に組織内・企業内民主主義という問題において…民主主義の基本原則の一つは「信教の自由」すなわち「信ずることの自由」であり、ある人間の自己の内なる「信にかかわる」問題には、他者は絶対に関与してぱならないのがその原則である。
2012-07-22 20:58:237】「これは私の信仰で」「これは私の宗教的(イデオロギー的)信念だ」とその人がいえば、その人を強制的に改宗、もしくは転向さす権利は誰にもないということである。従ってこの問題について暴力・威嚇・脅迫・強談威迫・非難攻撃等を加えて強制改宗・強制転向を図ることは勿論許されない。
2012-07-22 21:20:578】と同時に民主主義は言論の自由を保証している。人はこれによって、情報提供や討議・論争を通して他者の「知にかかわる」ことには相互に自由に触れ得て、それによる知識の増大・変化・修正に基づき知的判断の変更を行い得ることによって合意に達しうる。
2012-07-22 21:58:339】そして純粋世俗集団では、このことは、特に規定を設けなくとも日常の問題処理として、ごく普通に行われているわけである。ただ問題は、以上の二原則が、決して何の矛盾もなく併存し得るのではないという現実である。
2012-07-22 22:21:0510】「信」が肥大化してすべてが「信にかかわる問題」となり、一切は「これはオレの信念だ」となれば、言論の自由は成立し得なくなる。と同時にその人たちには「知にかかわる問題」は皆無になってくる。
2012-07-22 22:58:1911】前に会田雄次氏と対談したとき「信念の人、つまりそりゃアタマのカラッポな人間やね、学者にも篤農家にも運動家にもいるな、それは。そういう姿勢をとらにゃ、自分のカラッポがばれるからね」といって笑われたが、これは「知にかかわる」面が皆無の人間ということであろう。
2012-07-22 23:21:0112】そして聖俗未分化の中間組織ともいえる日本の組織では、この「一切が信にのみかかわる」人間が企業や組合や政治集団といった世俗組織の中にもいる、という問題である。この「信」の肥大化のもとでは、もちろん民主主義は成立し得ない。
2012-07-22 23:58:4913】と同時に、この逆もありうる。すなわち「知にかかわる」面が極端にまで肥大化して「信にかかわる」面にまで及べば、世俗組織の利益を基にして多数決で個人に強制改宗や強制転向を強いうるという問題である。
2012-07-23 00:23:4114】これは一見前者よりも「民主的」に見えるが、この状態が出現すれば、やはり言論の自由は失われ、民主主義は失われる。そしてこの問題は、原則的には世界のすべての組織に存在するわけで、日本だけの特徴ではない。
2012-07-23 00:58:0515】【”あいまいさ”ゆえに生きる組織】しかし日本にはやはり日本独特の問題がある。それは組織が中間型の為か、その中間型をつくりあげた個人の意識の為か…それはわからないが、組織も個人も、ある問題を自己の内の「信にかかわる問題」か「知にかかわる問題」かを峻別しないのがその特徴である。
2012-07-23 01:20:5316】従って、全ての集団と組織は常に擬似宗教団体の一面をもち、その団体に属する人間は、この点を峻別しないのが特徴で、同時にその団体は、峻別しないがゆえに成り立っている場合がある。そして、これは公害運動などに鮮明に表れているが、この要素は、実は日本の企業にもあるといってよい。
2012-07-23 01:58:1817】最近…朝日の大熊記者が次の様に記している。「もしジャーナリスト達がいつまでも原子力の恐しさだけを誇大な記事に仕立て、エネルギー不足の恐しさに目を向けないで日本の世論を誤った方向へ導くとすれば、近い将来その無知と無責任と軽率さを、国民から咎められる時が必ずくるに違いない」と。
2012-07-23 02:20:5318】氏は昨年、「核燃料――探査から廃棄物処理まで」を朝日に連載した人で、その最終回に「核燃料を使って電気をつくることは、資源小国の日本にとって、避け得ない選択であると思われる」と書いた。
2012-07-23 02:58:2119】そして氏は「この言葉を書いたときから、原発反対派の人たちの強い反発を覚悟して」いて、現実にその運動家から波状攻撃を受けているわけだが、この人たちが、核燃料のことや、放射線の人体への影響について、正確な知識を持っていないことに驚いた」という。
2012-07-23 03:20:5220】このことも…大変に面白い問題である。というのは「原子力発電」という20世紀の科学の最先端をいくものへの反対が、実は「正確な知識」に基づく各人の「知にかかわる問題」ではなくて、過去の原子力発電の報道を信ずる「信にかかわる問題」だということである。
2012-07-23 03:58:1421】ここにも報道が先か、そういう報道の方が利潤を生み出す国民の意識が先かの、いわば卵か鶏かの問題が存在するわけだが、それを一応除外すれば、それを記した記者をも含めて「反原子力」は一つの「信にかかわる問題」になっているということである。
2012-07-23 04:20:5222】こうなると「反原子カ教」といった一種の擬似宗教となり、その組織は世俗組織でなく一種の擬似神聖組織となり、原子力にかかわる一切の問題は、自己の「信教の自由」にかかわる問題となってくるわけである。
2012-07-23 04:58:0423】そうなれば「正確な知識」はなくても徹底的な反対は可能であり、これは「信にかかわる」問題だから、情報の提供・討論・論争によって互いに自由に相手の「知にかかわる」面に触れて、相互に知識を増し、変化・修正し、最終的合意に基づく新しい「知的判断」を下す事は不可能になってくる訳である
2012-07-23 05:20:5124】そして、反原子力教の方は「信」の肥大化によって「知にかかわる問題」まで「信」の問題としているから、その態度は改宗、転向の強制以外にあり得なくなるわけである。
2012-07-23 05:58:2125】【「神聖組織」でもなく「世俗組織」でもあり得ず…】ではこの「信」が極限まで肥大化した様な集団は一種の神聖組織とみるべきなのであろうか。実はこれが日本における中間型の特色で…あくまでも擬似神聖組織であり、かつ擬似世俗組織であっても、神聖・世俗のいずれでもないという事なのである
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