ニー仏さんと慈永和尚さんの対談 その2

ニー仏さんと慈永和尚さんの対談からの続き http://t.co/KPUYW0q3
4
ニー仏 @neetbuddhist

慈永和尚は「阿羅漢と仏陀の区別」の問題から、大乗と部派の差異の強調という方向に進まれつつある。そこが私にピンと来ていないのは、私がむしろ逆の認識を、ミャンマーで得たからなんだよね。

2012-08-09 00:46:31
ニー仏 @neetbuddhist

ミャンマーに来る以前、日本でテキストを読んでいる限りでは、禅と初期仏教 or テーラワーダというのは、全く違う宗教という認識だった。仏教の「中国化」の精華である禅と、実にインドらしい宗教であるゴータマ・ブッダの教説が、噛み合うなんてことがあるはずがないと思ってたわけ。

2012-08-09 00:50:21
ニー仏 @neetbuddhist

今の考えは全く逆。禅は、仏教が中国に伝わる過程で、身につけてきた様々な不純物をそぎ落として、ゴータマ・ブッダの仏教の「かんどころ」を、ぴたりと押さえているという印象。

2012-08-09 00:53:43
ニー仏 @neetbuddhist

実際、テーラワーダでは、大乗の中でも禅には好意的、という人がけっこういる。こいつはもちろん、人による話ですがね。

2012-08-09 00:56:09
ニー仏 @neetbuddhist

そんなわけで、私はこちらに来て禅とテーラワーダの著しい(テキストではわからなかった)共通性を、まさに宗教的次元で納得したので、慈永和尚の抱えていらっしゃる大乗の徒としての部派仏教に対する違和感というのが、なかなか実感としてはわからなかったりする。

2012-08-09 00:59:57
ニー仏 @neetbuddhist

まあ、あれか。私はもともと、「釈尊の仏教」と「大乗仏教」は、「両立不可能・二者択一不可避」であると主張する津田真一先生の仏教学にわりと影響を受けていたので、「違うのは当たり前」だと、最初から思っていたというのはある。

2012-08-09 01:01:56
ニー仏 @neetbuddhist

そんなわけで、今はむしろ両者の共通性の方に目が行きますね。「大乗」はゴータマ・ブッダの仏教とあんなに違っているのに、なぜ「仏教」を称し得たのか、ということも、むかしはさっぱりわからなかったのだけど、今はものすごくクリアに理解できる。

2012-08-09 01:04:05
ニー仏 @neetbuddhist

これは、ミャンマーに来て、行を自分で納得行くまでやらなかったら、絶対にわからなかったことだろうと思う。

2012-08-09 01:04:52
@jiei_yushi001

@neetbuddhist これは端的に言って、ここは避けて通れないからですよ。

2012-08-09 01:15:58
@jiei_yushi001

@neetbuddhist よってここhttps://t.co/T9qJUmZlで云われておられるけれども、違和感というものはない。むしろ、違和感を持たないで両者を無反省に同置してしまいそうになる危機感が故です。

2012-08-09 01:18:48
@jiei_yushi001

@neetbuddhist なので1000年前後も昔に大分裂した仏教が、ソフトランディングの形で共存できるのかどうかを、宗教的次元から問い直す必要がある。破僧伽は五逆罪ですからね。これを償える道が宗教的次元から開かれているかどうかという問いかけを、自分自身にしているわけです。

2012-08-09 01:23:37
ニー仏 @neetbuddhist

@jiei_yushi001 とすると、ここ https://t.co/8g9uc5Dh で言われている「噛み合わないが故の不幸」というのは、和尚自身は「噛み合わない」とは感じていないけど、そこを敢えて「噛み合わない」部分に意識的にフォーカスされているということですか?

2012-08-09 01:27:42
@jiei_yushi001

@neetbuddhist 噛み合わないどころか、今の生活自体、かなりの部分が禅そのものです。

2012-08-09 01:29:36
@jiei_yushi001

@neetbuddhist もっというと、今の寺院の日常の一日は、本当にこれがテーラワーダなのかと疑うほど。禅の修行道場で修行した人なら目にしたことがある、禅道場の役職、食事作法、師僧への接し方、法戦式などなど。

2012-08-09 01:35:31
ニー仏 @neetbuddhist

@jiei_yushi001 それは以前ツイートされてましたね。ただ、曹洞禅に関するツイートに見られるように、慈永和尚も「成仏」という観念が、それ自体ひとつの執着であることはおわかりかと思うのです。禅では伝統的に、「仏向上事」と言いますし、また「仏見を起こすな」と戒めますからね。

2012-08-09 01:35:52
ニー仏 @neetbuddhist

@jiei_yushi001 だから、輪廻転生にこだわらず、「悟り」を無量劫の彼方に先送りしないのであれば、仏陀と阿羅漢の差異を言うことは、そんなに意味がなくなってくるようにも思うわけですよ。

2012-08-09 01:38:07
ニー仏 @neetbuddhist

@jiei_yushi001 衆生救済、ということであれば、御指摘のとおり「己事究明」を旨とする禅宗では、他の大乗ほどそこにフォーカスしませんし、逆に言えば、テーラワーダでも禅宗が「利他」を重んじる程度には、それをきちんと重んじている。

2012-08-09 01:39:15
@jiei_yushi001

@neetbuddhist これは、それを介して執着するかどうかがポイントになります。執着でなければ、十方法界の土地草木、牆壁瓦礫みな仏事をなすと道元禅師も云われています。

2012-08-09 01:39:37
@jiei_yushi001

@neetbuddhist だから、悟りひいては真如のポイントの置き方が違うんですよ。石ころに対して「これがブッダだ」ということは絶対にテーラワーダでは云わない。これはダルマカーヤ「法身」への相見があって初めて果たせる。

2012-08-09 01:42:10
@jiei_yushi001

@neetbuddhist ホントはこんなこと言うのは誤解を招きそうで言いたくないんですが、自他の区別なんかどうでもいいんですよ。ただ自への執着を離れるには、己より他を先にするほうがいい。しかし自他の区別をしないというのを、ポイントに置いています。

2012-08-09 01:43:56
ニー仏 @neetbuddhist

@jiei_yushi001 ああ、ちょっとわかってきました。道元禅師の有名な「一切衆生悉有仏性」の解釈と相関する話だと捉えていいのかな。

2012-08-09 01:45:01
@jiei_yushi001

@neetbuddhist そこは気が付きませんでしたが、道元禅師はそこを一歩進めて、本来別モノであるはずの「性」(本質)と「相」(現象)を同置しました。つまり「仏性」は「仏相」でもあって「相」というからには、そこから敷衍してこの世の一切も「仏相」と見る。そしてこの歌があります。

2012-08-09 01:47:47
@jiei_yushi001

@neetbuddhist 峰の色 谷のひびきもさながらに わが釈迦牟尼の声と姿と

2012-08-09 01:48:26
@jiei_yushi001

@neetbuddhist 「山川草木悉皆成仏」「有情非情同時成道」という言葉もあります。故・宮崎禅師が繰り返されたことばでもありますが。

2012-08-09 01:51:42
1 ・・ 4 次へ