渡邊先生と後藤先生の会話 心理学における「心と行動の問題」

このまとめは以下のまとめに続きます。 渡邊先生と後藤先生の会話 「心とは機構なのかコンテンツなのか」 http://togetter.com/li/361472
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後藤 健 @123_euglena

他者からの評価(いわゆる報酬?)を行動原理にしていると、幸せはつかめないんじゃないかな。

2012-08-21 00:20:33
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 「他者からの評価を行動原理にしていると自分で考えていると幸せになれない」だけで,実際には報酬によって動いていてもそれに気づかなければ人は幸せです。そのために人は「心」とか「精神」とか「意図」とか「欲求」とかのフィクションを持つようになります。

2012-08-21 00:23:43
後藤 健 @123_euglena

@ynabe39 その推論の妥当性は、どこにありますか?

2012-08-21 00:27:00
渡邊芳之 @ynabe39

霊感によります。 RT @123_euglena: その推論の妥当性は、どこにありますか?

2012-08-21 00:30:39
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena マジレスすると,こういうことについて私が書いているようなことは20世紀以降に哲学でも心理学でも人の行動や心について専門に研究してきた人にとっては「当たり前の常識すぎてわざわざ言う必要もないこと」ばかりです。

2012-08-21 00:32:21
後藤 健 @123_euglena

いやぁ、楽しいご回答、とても楽しかったよ。QT @ynabe39: 霊感によります。 RT @123_euglena: その推論の妥当性は、どこにありますか?

2012-08-21 00:32:34
渡邊芳之 @ynabe39

知っている人には「なにをいまさらそんな当たり前のことを」といわれ,知らない人には「そんなはずはない,デタラメを言うな」といわれるようなことを言うのが好きである。

2012-08-21 00:33:56
後藤 健 @123_euglena

なんだ、マジメな回答は別にあったんだ。哲学的常識、心理学的常識にケチをつけるのが渡邊心理学の真髄かと思ってきたので大ショック!@ynabe39: 霊感によります。 RT @123_euglena: その推論の妥当性は、どこにありますか?

2012-08-21 00:36:25
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 常識の存在はまず前提ですよ。前提を共有するからこそ常識への批判もできる。常識を知らない人に常識批判だけを聞かせるのは危険ですよね。

2012-08-21 00:37:41
後藤 健 @123_euglena

@ynabe39 @123_euglena この文脈での「フィクション」という言葉の意味を教えて頂けますか?

2012-08-21 00:38:36
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 文字通り「存在しないものについての物語」という意味です。

2012-08-21 00:40:11
後藤 健 @123_euglena

@ynabe39 心理学的常識はこれだ!知らぬものは黙ってろ!勉強して出直せ!ということですか?常識批判だけを聞かせるのは危険、とは仰りますが、渡邊さんは既に「常識だけ」を聞かせたでしょう?

2012-08-21 00:46:08
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 私が言っていることが常識なのかどうかの判断もできないならその話題について(学問的なレベルで〕考えるのは難しいですよね。

2012-08-21 00:47:57
後藤 健 @123_euglena

@ynabe39 僕が「心理学」常識を知らないことは最初から明らかなこと。で、僕のTWに心理学者によるコメントがついた。素人の間違いを説明する気がないのだとしたら、最初から無視すればいいだけなのではないかな。その気がないなら、学問的権威に服従しろと言っているだけになってしまうよ。

2012-08-21 01:07:27
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 先生は「○○なのだろうか」とつぶやいて「それは専門家の立場ではこれこれだ」というと「その学問の常識を押し付ける」というわけです。私がユーグレナについてなにかをつぶやいてそれに先生がコメントをくれたとしたら私はまずはその内容を受け入れると思いますよ。

2012-08-21 01:11:57
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena これは心や行動の問題ではいつも起きることです。たとえばユーグレナについて専門の勉強をしていない私は「自分が専門家よりもユーグレナについて知っている,あるいは理解できている」などとは絶対に思わないわけです。しかし心や行動の問題ではそう思わない人が多い。

2012-08-21 01:13:46
後藤 健 @123_euglena

@ynabe39 いや、心理学のような人文学の場合、諸説が入り乱れているのでは、という「先入観」が僕にはあります。なので、渡邊説も一つの考え方だろうけれど、別の考え方をする心理学もあるかな、と。そこが、いわゆる科学と人文学の「事実」妥当性の違いかと思ってきたということです。

2012-08-21 01:16:39
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 心は自分にもあるし自分も行動をする,そして自分もいつも自分の心や行動について考えている。人の心や行動をテーマにした本も読んでいる。だからとくに勉強をしなくても人の心や行動については専門家と同じレベルで話ができるはずだ,というわけです。

2012-08-21 01:18:21
後藤 健 @123_euglena

@ynabe39 それもありますね。心の内省、ということでは、学問の達人と人生の達人、どちらか「事実」を突くことができるかというと、普通は後者と答えるでしょう。もちろん、「学問」的水準を問題にすれば前者ですが、「心」の問題を解決する上で重要なのは後者です。

2012-08-21 01:22:48
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena ですから先生がそういうふうに述べることは,たとえば電気屋のおじさんや飲み屋のおばさんが「人の心」について述べることとまったく同じであるわけです。あるいはうちの中学生の息子でも同じようなことはいえると思います。

2012-08-21 01:26:01
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena (先生も含めて)一般の人が「心や行動について理解すること」だと思っていること自体が「学問として心や行動を理解すること」とは違うし,むしろわれわれは「素人が心や行動の理解だと信じていること」が生じる仕組みを主な研究対象にしています。

2012-08-21 01:27:10
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena 少なくとも20世紀半ばよりもこっちは「素人が考える心や行動の理解」と「学問としての心や行動の理解」とはいま述べたような関係になっています。先生が「素人」として心や行動について考えることは,われわれの「研究対象」でしかありません。

2012-08-21 01:29:18
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena たとえば私もユーグレナを育てていて「自分もユーグレナを育てているから生物学の勉強などしなくても専門家と同じレベルで話ができるはずだ」「専門の勉強などするより日々ユーグレナを育て続けることのほうがユーグレナの理解には有効だ」と言ったらどう思いますか。

2012-08-21 01:33:42
渡邊芳之 @ynabe39

@123_euglena ところが心や行動の問題に限っては先生のような「ある学問の専門家として訓練を受けた人」でもそれと同じことを言うわけです。まあ生物についてもまだ生物学が発展していない時代にはそういうことが言えたでしょうが,そういう時代は19世紀には終わったでしょう。

2012-08-21 01:35:35
後藤 健 @123_euglena

@ynabe39 「われわれ」がどこまで指すかは不明ですが、そのような研究対象があることは、渡邊さんから直々に「血液型と性格」に関連して教わったところです。

2012-08-21 01:36:56