出版論の原点。『ガロ』編集長・長井勝一と作家・白

竹熊健一郎さんの、一連の電脳出版論の流れで集めさせていただきました。本物の編集者と作家の出会い。出版の原点としていつでも振り返ってみる必要があると思いました。
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竹熊健太郎《Aタイプ》 @kentaro666

1)「ガロ」は1964年に創刊されましたが、きっかけは貸本漫画史上最大のヒット作と呼ばれる『忍者武芸帳』(三洋社)で人気作家となった白土三平先生が、ライフワークとして構想した『カムイ伝』のアイデアを担当で版元経営者だった長井勝一氏に話したところ、

2012-10-12 11:43:54
竹熊健太郎《Aタイプ》 @kentaro666

2)『カムイ伝』を連載する為に長井勝一氏は三洋社を解散、一般取次コードを取得して「ガロ」を創刊しました。青林堂には白土先生が出資をしたはずで、だから他の作家とは最初から立場が違います。初期のガロを見ると、白土先生のアシが連載コラムを持ったり、赤目プロの同人誌みたいです。

2012-10-12 11:43:56
竹熊健太郎《Aタイプ》 @kentaro666

3)『カムイ伝』執筆開始時期には、白土三平先生は講談社、集英社、小学館で連載を持つ超人気作家になっていました。しかし構想した『カムイ伝』は徳川幕藩体制の根幹である「身分差別」が中心テーマであり、大手版元ではリスクが高すぎて連載不可能だと思われました。

2012-10-12 11:51:57
竹熊健太郎《Aタイプ》 @kentaro666

4)そこで、盟友である編集者・長井勝一氏に相談を持ちかけた訳です。『カムイ伝』を連載するという事は、それに伴って予想されるあらゆるトラブルを、編集長で社長の長井勝一が全て引受けるということです。長井勝一氏がいなかったら、「ガロ」も『カムイ伝』も存在しなかった事になります。

2012-10-12 11:57:56
竹熊健太郎《Aタイプ》 @kentaro666

5)白土先生と長井氏の関係は、漫画史における作家と編集の「幸運な出会い」の代表例。白土先生がデビューした版元が倒産、長井氏が経営する貸本版元の日本漫画社に持ち込んで来たのが出会い。会社は三洋社に名前を変え、大作『忍者武芸帳・影丸伝』を刊行しました。毎月1巻ずつの描き下ろしです。

2012-10-12 12:13:58
竹熊健太郎《Aタイプ》 @kentaro666

6)長井氏は白土先生が「原稿返却して下さい」というので、この新人は何故こんな事を言うのか不審に思ったそうです。それまで漫画原稿は「買取」が慣例で、原画は読者プレゼントか燃やしていたからです。理由を聞くと「僕の作品だから」。初めて「作家意識」を持った漫画家に遭遇して驚愕したとか。

2012-10-12 12:34:11
竹熊健太郎《Aタイプ》 @kentaro666

7)ある時期まで漫画家は「漫画を描く職人」であって、それが「芸術の一種」で漫画家は作家・芸術家だとは、当の作家自身、考えてませんでした。作家意識をもっていたのは、50年代末に劇画が台頭するまでは、手塚治虫先生と白土三平先生くらいではないでしょうか。

2012-10-12 12:40:32
竹熊健太郎《Aタイプ》 @kentaro666

8)長井勝一の自伝『ガロ編集長』に、このあたりの経緯が書いてあります。戦前、大陸で馬賊紛いのヤンチャをし、戦後は親戚の書店の倉庫で焼け残った漫画本を上野の闇市で売ったら、娯楽に飢えていた人々が「あ、漫画だ!」と挙って買い求めた事が長井勝一の出版人としての原点です。

2012-10-12 12:49:29
竹熊健太郎《Aタイプ》 @kentaro666

9 )白土三平先生と出会うまで、長井氏の生活は荒んでいました。テキ屋紛いの露天商から出版活動を始め、稼いだ金は全部遊興に消えて、結核で長期入院する羽目に。入院中、過去の荒れた生活を反省した彼は、初めて出会った「本物の作家」である白土三平に自分の編集人生を賭ける決意をしたのです。

2012-10-12 13:01:16
竹熊健太郎《Aタイプ》 @kentaro666

10)『カムイ伝』が学生の間でバイブルになり、知識人・学者から高く評価され、小学館が長井氏に「ガロ」と青林堂の買収を持ちかけたそうですが、小学館は白土と水木しげるが欲しいだけと悟った長井氏は、 他の新人の発表の場を守る為、断りました。そして清貧の編集長として一生をおえたのです。

2012-10-12 13:20:59