唐の筑紫都督府駐留に伴う「風土記」の磐井記事と和同開珎・富夲銭について

唐の筑紫都督府駐留時、その占領の苛烈さは同時代資料ではなく、「風土記」の磐井記事に擬されていたのではという疑念と、それに関連して、和同開珎が駐留唐軍のいわゆる「軍票」ではなかったのかという疑念、さらに富夲銭との関連を考察。 ※伝東大寺軒丸瓦の考察を追加。併せて以下も参照下さい。↓  「和同開珎」発行の謎を考察する―"儀狄 @giteki 先生の中国貨幣史講座"を受けて― http://togetter.com/li/606101
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じねん @jinensai

銭湯なう。秋田雨雀の『全仕事』半分くらいまで読み進む。面白いのは、関わった方面の方々が各々雨雀の中心的仕事は我が方面也というニュアンスで語っていることだろう。担がれて関わってしまうと、重責や難しい立場でもこなしてしまう「お人好し」な部分が、そう思わせてしまうものなのか…。

2012-09-30 20:52:16
じねん @jinensai

あと本筋ではないが、雨雀日記の原敬暗殺に対するくだりが淡白すぎるという指摘に、同時代をリアルタイムに記録することの難しさを逆に感じてしまった。寄稿者は情感や展開の不足に満足しなかったようだが、自分の考えを記述してしまったら当局から制限を受けるであろう時代性も考慮すべきだろう。

2012-09-30 21:01:22
じねん @jinensai

話は飛ぶが、維新の元勲(の近親者)が絶賛存命中だった昭和に、彼らの負の行状について語ることは大いに憚られたはずなのだ。平成も今時分になってから、ようやくあれこれ語られ出したわけで、同時代にと言うのは実はかなりの難事だ。

2012-09-30 21:06:49
じねん @jinensai

そんな時の常套手段として、時代を遡らせたり、未来に設定したり、異世界にしたりというテクニックが援用されてきた。忠臣蔵を室町時代に設定し、塩谷判官と高師直に擬するアレだ。

2012-09-30 21:11:43
じねん @jinensai

この辺の発想で風土記の磐井の乱を解析(古田武彦さんに先行発想あるが不十分)出来そうに思う。これは思索ストックで醸成中なのだが…。

2012-09-30 21:17:08
じねん @jinensai

おっと…サウナに入り直さなきゃ。(体冷えてきた。)

2012-09-30 21:18:28
じねん @jinensai

銭湯中。久々に脳内円卓会議。時代をずらして記録することについて、続き。白村江後、唐軍が進駐(2000+2000=4000人)する際の軋轢は『紀』からは窺えない。では何もなかったのか? あったとしても何も物申せぬ状態だったのではないか?

2012-10-14 21:08:50
じねん @jinensai

ここで想起するのが風土記の磐井の乱の不可解箇所だ。篤疾者(手足が怪我で不自由)が多いという説明に従来怨霊的解釈がなされてきた訳だが、風土記編纂準備期を720年以前とすると、662(663)年の白村江から最大60年後ということになる。

2012-10-14 21:23:45
じねん @jinensai

元記事採録を仮に50年後とすると唐進駐時に10歳前後の子供は60歳、古老として往時を語る語り部たちということになる。彼らが唐軍の所業を磐井の乱にこと寄せて官軍の所業(石人、石馬破壊)として語ったのではないか? そして自らの手足を折られた事実も。

2012-10-14 21:28:15
じねん @jinensai

官軍のせいにしても許された背景には、風土記の編纂命令は当初新たに統治した九州倭の事情を知るために唐から出されたものだからではないか? その後遣唐使(実態は朝貢)の定期的派遣という玉虫色の決着により、意味合いが近畿天皇家による統治のためにすり替えられたのであろう。

2012-10-14 21:42:26
じねん @jinensai

銭湯から書店のベンチへ移動。

2012-10-14 22:28:16
じねん @jinensai

ついでに和同開珎について。唐の開元通寳と酷似していることはつとに知られているが、あまりにもそっくりなのが以前から気になっていた。ふと考え付いたのは、本当に姉妹貨幣ではないかということ。つまり元々は筑紫都督府(大宰府)に進駐中の唐軍が使用していた軍票なのではないか?

2012-10-14 22:43:06
じねん @jinensai

長期に亘って駐留していたのだ。手持ちの銭は圧倒的に不足した筈だ。2000~4000の兵士への給料、生活物資の調達だって占領中とはいえ倭から全てロハで収奪というのは占領政策として下策である。売り買いはあったと考えるべきだろう。

2012-10-14 22:49:14
じねん @jinensai

和同開珎はそのために鋳造されたのではないか? つまり開元通寳と兌換できる軍票である。開元通寳と同じですよ、という意味、開珎とは開元通寳の省略形であろう。寳の字を使用していないことからも、代用貨幣のニュアンスが汲み取れる。

2012-10-14 22:55:21
じねん @jinensai

やがて盟友・新羅が670年頃から半島から唐を駆逐する敵対行動に転じることで筑紫都督府の進駐中の唐軍は一転ピンチに陥るわけで、日本の(中大兄に「襲名」されて事蹟まで奪われる)中宮天皇=蘇我蝦夷の計らいで撤収することになる。

2012-10-14 23:03:08
じねん @jinensai

一方、日本は自国通貨として蘇我によって富本銭を発行していたが、唐の置き土産である和同開珎との競合に結果的に敗れ、また蘇我が打倒されることで事蹟自体を闇に葬られる。

2012-10-14 23:12:24
じねん @jinensai

その後も貨幣の自国発行を試みる(新富本銭=持統天皇)が太刀打ちできず、遂に和同開珎を天皇家が発行したように記録の上書き・改竄へ踏み切る。大胆不敵にも「和銅」と改元して和同開珎はそれに因んだネーミングであるというように原因と結果をひっくり返したのだ。

2012-10-14 23:17:01
じねん @jinensai

『紀』に鋳銭司の記事が数次に亘って出て来る(和同開珎の銭文なし)のは蘇我政権下(であるため抹殺)の富本銭であろうし、『続紀』に和同開珎の銀銭が銅銭に先立って鋳造されるのも鋳造するまでもなく和同開珎銅銭が市中に流通していたからと考えるなと腑に落ちる。

2012-10-14 23:23:57
じねん @jinensai

蓄銭叙位令は、私宅に蓄えられて流通してない富本銭を吐き出させるためであろう。それでも吐き出させられなかった富本銭は奈良の大仏建立の際に「国銅」を集め尽くすという名目、つまり「刀狩り」で徹底的に消されたのだ。(それは蘇我の無念を供養する意図も兼ねている。)

2012-10-14 23:31:13
じねん @jinensai

だが痕跡をこの世から完全に消し去る事は出来なかった。飛鳥池から鋳竿付きの富本銭が発見され、和同開珎の謎は再び検討の俎上に上げられることとなる…。(以下、思索中。)

2012-10-14 23:36:08
じねん @jinensai

「和同開珎」の銭文について凡そ考えがまとまる。背景として唐の貨幣「開元通寳」の流通があり、白村江後に筑紫都督府に駐留中の唐軍を賄う必要上「軍票」として発行されたという仮定は既につぶやいた。「開珎」は「開元通寳」の省略形(手抜き)だろう。

2012-10-31 14:56:23
じねん @jinensai

問題は「和同」の方だ。「和銅」改元との関連によって目が曇っていたにせよ「開元通寳」でさえ改元とは無関係であり、仮説が正しければむしろ右回りに「開通元寳」である可能性が高い。「和同」の「同」は等価の意味なのはすぐ分かる。「和」をどう受け取るかが問題だろう。

2012-10-31 15:04:53
じねん @jinensai

「和」が日本風な意味を持つのは遥か後代であり、ヤマトに「大和」表記が充てられるのも8世紀以降だ。「なごやか」という意味では少し弱い。むしろ足し算の答えである「和」ではないか? つまり「開元通寳」の不足分に(同価値設定の軍票を)「足し」ますという意味にとれる。

2012-10-31 15:14:35
じねん @jinensai

「和銅」改元に引きずられず、銭文をストレートに読み下せば、意味的にそのものズバリを言い表している。

2012-10-31 15:30:04
じねん @jinensai

唐軍撤収後に大量に残された「和同開珎」は倭国・日本国・蝦夷国他列島内の基本通貨「無文銀銭」と銅銭(南北朝・隋の「五銖銭」、「開元通寳」、蘇我発行の「富夲銭」等)との交換比率を致命的に崩壊させたのではないか。

2012-10-31 15:45:37