白山事件 および 安元の大火のことなど

白山事件、安元の大火に関する長ったらしい独り言をまとめました。
6
平 資盛 @sukemori_t

源氏に尺を取ると、めちゃくちゃ簡単な白山事件になりますねw

2012-10-21 18:58:47
平 資盛 @sukemori_t

【白山三社八院】 白山中宮は、中宮、左羅、別宮の三社からなり、八院は、護国寺、昌隆寺、松谷寺、蓮花寺、善興寺、長寛寺,涌泉寺、隆明寺を指します。 白山は延暦寺の末寺でした。

2012-10-21 22:12:00
平 資盛 @sukemori_t

【藤原師高】 ・仁安三年、左衛門尉補任(兵範記/13日条裏書) ・同四年3月13日条、後白河法皇高野御幸の記録に(左衛門尉(中略)師高(中略)(廷尉)」とあり、検非違使であり、「玉葉」承安四年7月27日条には「検非違使師高(大夫尉)」とあり、五位に昇進していたことがわかる。

2012-10-21 22:07:14
平 資盛 @sukemori_t

安元元年12月29日追儺の徐目で師高は加賀守に任じられた。

2012-10-21 22:07:42
平 資盛 @sukemori_t

【近藤判官師経】師高の弟 *百練抄安元三年3月28日条→師経は院武者所、加賀目代、国司(師高の縁者) *師経の父、師光を「阿波在庁」としているが、祖父上は師光、師経を斬った上、阿波にいた師光の子を襲わせたところ、近藤七親家が難を逃れました。

2012-10-21 22:10:22
平 資盛 @sukemori_t

*文治元年二月、義経が屋島を攻めるため摂津・渡部から阿波に向かったとき、親家が義経の道案内をしたと伝わる/吾妻鏡18日条

2012-10-21 22:10:50
平資盛実況なう @sukemori_jikkyo

【白山事件まとめ】 安元元年(1175) 五位大夫藤原師高(西光の子)、加賀守となる。西光はもとは阿波在庁出身。その子が国司になるのは大出世(源為義は、生涯国司になることなく終る) ・安元二年4月 加賀国目代藤原師経(師高の弟)加賀白山中宮の一つ涌泉寺の僧と揉め、寺を焼き払う

2012-10-21 20:57:17
平資盛実況なう @sukemori_jikkyo

安元二年(1176)8月 白山中宮三社八院の大衆、、師高の悪行を山門に訴え、宮の神輿を東坂本に遷す ・安元三年3月 後白河法皇福原御幸(14日~21日)3月21日 延暦寺衆徒が加賀守藤原師高を訴える ・3月29日 加賀目代藤原師経を備後に流す

2012-10-21 21:00:32
平資盛実況なう @sukemori_jikkyo

・安元三年(1177年)4月13日 延暦寺衆徒、日吉・白山神輿を報じて内裏に押し寄せる。 ・国司師高の流罪を要求。神輿を捨て去る。 ・父上の定期ポスト「神輿に矢が当たるとはおもわなんだ」 ・帝、中宮、法住寺殿に避難される(内裏を離れることに対し非難の声が上がる) ・

2012-10-21 21:03:15
平 資盛 @sukemori_t

【玉葉 安元三年4月14日条】 「寅刻、人告云、山僧又以下向。依恐其事、忽行幸法住寺殿」 *高倉帝が閑院から後白河法皇の法住寺殿に行幸されました。このとき、「中宮行啓、大進(平)基親之外、更無他人」、中宮徳子様も行啓されましたが、お供の公卿は邦綱殿のみ(邦綱殿女は高倉帝乳母)。」

2012-10-21 22:44:35
平 資盛 @sukemori_t

関白は遅参、供奉も大半は武士で、あたかも内裏炎上のような混乱だったといいます。

2012-10-21 22:45:23
平 資盛 @sukemori_t

この法住寺殿行幸については九条殿が「玉葉」之中で批判しています。 「縦い夷狄謀叛を致すと謂も、天子豈に皇居を捨てんや。弾指すべきの世なり」 「官兵ら手を分けられ、衆徒参洛の道を防がるべきなり。而して敢えてその沙汰なく、只御在所の近辺、雲集星列す。大都京洛をもって戦場となすべきか

2012-10-21 22:48:49
平 資盛 @sukemori_t

衆徒を都に入れないのが肝要、都を戦場とするべきでないという意見でした。 また、内侍所を洛外の法住寺殿に渡すことにも反対されていましたが、院御所法住寺殿で、徳大寺実定殿らの朝議により、内侍所は移動されず、経盛大叔父上と左少弁兼光殿が内侍所守護のため閑院に伺候されることに。

2012-10-21 22:51:06
平資盛実況なう @sukemori_jikkyo

・安元三年4月20日 加賀守藤原基隆を尾張に流し、神輿を[たまたま]射た父上の郎党6人を禁獄 4月27日 【安元の大火】 ・5月4日 後白河法皇、検非違使を遣わし、天台座主明雲を監督。 ・5月5日 明雲、解任。 ・5月21日 明雲、伊豆に配流となる

2012-10-21 21:06:14
平資盛実況なう @sukemori_jikkyo

安元三年(1177年)  ・5月23日 延暦寺僧徒、粟津で明雲を奪還。後白河法皇激怒、伊豆国知行国主、配流の責任者源頼政殿をけん責。延暦寺武力攻撃を決意するも、父上、宗盛叔父上が祖父上の指示なしでは動かないと出動拒否 5月27日 祖父上、福原から入京

2012-10-21 21:09:45
平資盛実況なう @sukemori_jikkyo

安元三年5月28日 祖父上、ついに山門追討を承諾。 いよいよ叡山との武力衝突は避けられなくなった!!!という時に発覚したのが ・5月29日 鹿ヶ谷事件 というわけです。

2012-10-21 21:11:51
平 資盛 @sukemori_t

【百練抄安元三年三月十三日条】 流矢誤って十禅師の神輿に中る。未曾有例なり。 「誤って」ですからね!

2012-10-21 22:19:01
平 資盛 @sukemori_t

神輿を射た人物について 【顕広王記 治承元年三月十三日条】(8月に改元) 神人等、本山に訴え申し大衆に随参の処、武士等を陣頭に付け、射払われ了んぬ。神輿二基矢に中る。(中禅寺{十禅師の誤り?}、京極寺と云々)。伊藤左門忠景将軍たりと云*延慶本によれば、忠清の本名が忠景

2012-10-21 22:15:48
平 資盛 @sukemori_t

「玉葉」、「愚昧記」には名は記されず、「官兵」、「武士」とあるだけです。

2012-10-21 22:16:30
平 資盛 @sukemori_t

【禁獄メンバーず】 ・利家(俊家)→薩摩中務丞家資の子。建久六年三月、東大寺供養の歳、東大寺大衆の中に潜んで頼朝を狙い、囚われて殺されたとされる家資の子が俊家かどうかは不明(保暦間記)。同年4月、結城朝光が10数年行方をくらませていた宗資(家資)父子を捕らえた(吾妻鏡)

2012-10-21 22:33:39
平 資盛 @sukemori_t

・平家兼→家貞の孫。家継の子。家継は家貞の子で、伊賀国山田郡平田が本拠。都落ちには同行せず、元暦元年、伊賀・伊勢で反乱を起こし、近江で佐々木秀義を討つも敗れ、討ち死。 ・田使俊行→難波五郎。難波氏は保元の乱、鹿ヶ谷事件などでも名前が出てきます。 ・藤原通久 ・藤原成直 ・藤原光景

2012-10-21 22:38:14
平 資盛 @sukemori_t

ちなみに、頼政殿が衆徒に「こんな少人数をボコッても何の自慢にもなりませんよ、重盛殿のところに行ったほうが武勇を示せますよΨ(`∀´)Ψケケケ」と言いくるめてw難を逃れた(?)のはこの時とも、前回の嘉応の強訴の時とも。

2012-10-21 22:21:12
平 資盛 @sukemori_t

父上は大宮表の陽明ー平安宮外郭東、待賢、郁芳の三つの門を固めたとされます。ただし、縫殿陣から入ろうとした衆徒が、頼政殿の言葉を受けて待賢門におしよせたというのは疑問。朔平門は内裏北門。陽明、待賢、郁芳門は平安宮の東門。 平安宮の門を通らず内裏の門に到達することは不可能。

2012-10-21 22:24:12
平 資盛 @sukemori_t

*大宮表に三門があるのは大内裏。閑院内裏の東は西洞院大路 【愚昧記同日条】 神人ら、本山に訴え申し、大衆に随い参陣の処、武士等に付けて陣頭のおいて射払われ了んぬ 【百練抄同日条】 延暦寺衆徒、七社神輿に相具して参内、陣中に入らんと欲するの間、武士間防ぐ (いずれも閑院の陣)

2012-10-21 22:27:19
平 資盛 @sukemori_t

里内裏である閑院内裏を中心とす三町四方陣中といい、圏外との境界に接する大路、小路の辻を陣口といいました。 閑院内裏には、二条堀川、冷泉油小路、三条坊門油小路、冷泉西洞院、三条坊門西洞院、二条町の六つの陣口がありました。

2012-10-21 22:28:03