近代精神保健のあゆみ簡略版

精神保健福祉士にとっては教科書的な基礎知識!ですが、 心理職の方や保健職等で他の領域から精神保健福祉に従事されるようになった方にはもしかしたら目新しい話が多々あるかもしれません。雨さんが簡潔にかつ彩豊かにざっくりとご説明くださったので、まとめ作成しました。
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@rain_00

さー、お待たせしました(?)。精神保健福祉の歴史(近代)の連続ツイート行ってみましょう!

2012-10-28 14:46:58
@rain_00

『【現代語訳】呉秀三・樫田五郎 精神病者私宅監置の実況』(金川英雄)の話題がちらほらでておりましたので、精神保健福祉の歴史についてざっくり述べてみたいと思います。

2012-10-28 14:47:14
@rain_00

私宅監置とはなんであるか?平たく言えば、合法的に座敷牢などに閉じ込めることです。私宅監置しますということを、警察に届け出て許可を得れば、精神障害者を自宅にしつらえた専用の部屋に閉じ込めておくことが出来るというもの。一応、私宅監置のための環境は定められていたようです。

2012-10-28 14:47:51
@rain_00

私宅監置についての規定は、1900年制定の「精神病者監護法」に定められている。こちらは、精神障害者に対する国内初の法律でありました。

2012-10-28 14:48:03
@rain_00

同法では、精神病者の私宅監置を、警察の許可制にして取り締まること、監護義務者の制度を設けて監置の責任を障害者家族に負わせることであった。この法律で示された国の精神病者観は精神病者は社会から隔離、監禁しなければならない危険な存在と見做し、患者の監視の責任を家族に負担させました。

2012-10-28 14:49:07
@rain_00

この法律のきっかけとなったのが「相馬事件(1884年)」。旧相馬藩主相馬誠胤が精神病にかかり、座敷牢に入れられたことに端を発した事件です。

2012-10-28 14:50:21
@rain_00

旧藩主の忠臣と称する錦織剛清が、当時の旧家老志賀直道(志賀直哉の祖父)と精神科医が結託して相馬家を乗っ取ろうとした陰謀だと主張し、藩主に精神病の診断を下した東京癲狂院(都立松沢病院の前身)の院長中井常次郎、当時の東京帝国大学精神病学教室教授榊俶が訴えられるという一連の騒動です。

2012-10-28 14:50:37
@rain_00

要は、藩主が精神疾患に罹る→自宅の座敷牢に監禁されていた事実が、本当に精神疾患からくるものだったのか、単なるお家騒動の陰謀だったのか?という騒動。ただ、精神疾患なら座敷牢に入れて良いのか、という話な訳で。当時こういう精神障碍者の監禁は多かった訳です。

2012-10-28 14:51:01
@rain_00

事件は錦織の敗訴という結果ですが、この事件で明らかになった精神障害者の不法監禁の野放しを取り締まるために制定されたのが精神病者監護法であるのです。一応は良い意味で作られている訳で「勝手に監禁するんじゃなく、ちゃんと届け出て監置しなさい」ということですね。実態は同じですけど。

2012-10-28 14:52:36
@rain_00

この当時は「精神障害者を野放しにするな」という論調だったので、とても治療とかそういうレベルじゃない。ずっと閉じ込めておきましょうという。待遇については家族の財力によるところが大きく、ちゃんと衣食住が確保されていた監置もあれば、衣食住もままならない野放し状態の監置もあったわけです。

2012-10-28 14:53:17
@rain_00

その状況を、1918年に呉秀三が「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」で、私宅監置の状況を明らかにしました。(先程の発売された現代語訳本とはこの報告書のこと)。

2012-10-28 14:53:51
@rain_00

名言「我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ」という有名な言葉を残しています。精神障害者は精神疾患を患ったことと、日本に生まれたことが二重に不幸、と述べています。

2012-10-28 14:54:16
@rain_00

その甲斐あってか、1919年には「精神病院法」と呼ばれる法律が制定されます。これは国および道府県に精神病院の設置を促進することを求めたものであり、私宅監置廃絶のための法律でした。精神科病院を増やして入院させ、結果私宅監置は廃止できる…!!という目算だったのです。

2012-10-28 14:54:54
@rain_00

しかしながらこの目算は頓挫してしまいます。第一次世界大戦のあおりを喰らい、病院の設置運営の財源を捻出できなかった訳です(ケチった)。結果、精神病者監護法と精神病院法は併存することになり、あまり私宅監置の数は減らなかった訳なのです。

2012-10-28 14:55:20
@rain_00

それから1950年、戦後5年目にして「精神衛生法」が制定されます。これはもう新体制下での法律です。ここでやっとこさ私宅監置は禁止されます。

2012-10-28 14:56:30
@rain_00

で、都道府県に精神病院の設置義務が課せられました。義務なので皆やらねばなりません。その結果、多くの精神障害者が入院、あるいは収容された。まあ、収容が正しいでしょう。ニュアンスとしては。ここでもあまり治療、みたいな感じではないです。

2012-10-28 14:56:41
@rain_00

国外では1960年代に始まる「脱施設化」(精神障害者の処遇を施設中心から地域中心に移す政策)が進んでいくのですが、日本はその世界的動向から逸脱、むしろ逆行して、精神科病院を大量に作りがんがん精神障害者を入院させていきました。

2012-10-28 14:57:00
@rain_00

1952年には、待望の抗精神病薬がクロルプロマジンなども出来上がり、治療もぐっと捗るのですが、それでも、治療が収容メインという形態は変わりませんし、抗精神病薬の治療に関しては、多剤大量処方みたいな流れになっていきます(これも世界から遅れている)。

2012-10-28 14:57:28
@rain_00

1963年にはアメリカで「精神病及び精神薄弱に関する大統領教書(ケネディ教書)」が出されます。これは、精神医療における脱入院化などが盛り込まれています。このへんから、日本も脱入院、脱施設化に進むだろうか…と思われていましたが、この後ひとつの事件が起こります。

2012-10-28 14:57:47
@rain_00

1964年、ライシャワー事件が起こりました。これは、統合失調症の青年が、駐日米国大使であるライシャワー氏を刺傷してしまった、という事件。これによって、精神障碍者の病院から地域へいう流れは頓挫し、世の中の意識として再び精神障害者は病院や施設に収容されていく流れになります。

2012-10-28 14:58:11
@rain_00

1965年、ライシャワー事件を受け精神衛生法は改正されます。緊急措置入院制度を新設、通院医療費公費負担制度を新設、保健所を地域における精神保健行政の第一線機関とし、精神衛生相談や訪問指導を強化、保健所に対する技術指導援助等を行う精神衛生センターを各都道府県に設置 等。

2012-10-28 14:58:29
@rain_00

これ、一応地域支援をベースにしてはいるのですけど、実情としては地域でしっかりアンテナ張って見張って、精神障害者を見つけたら受診させて、病院へ収容しましょうということです。というか、そういうニュアンスで使われていきます。

2012-10-28 14:58:53
@rain_00

そんな感じなので1967年に「クラーク勧告」というものが出ます。これはイギリスのデービド・H・クラーク博士が来日し調査した結果の勧告。地域サービスが少ないとか、精神科病院の環境や処遇が悪いとか。つまり「日本の地域精神保健はなってねーよ」と注意されますが、政府はそれを無視します。

2012-10-28 15:00:43
@rain_00

そして時は流れて1983年「宇都宮病院事件」が起きます。これは精神科病院内で起きた患者の虐待死という事件です。これと同様のこと(死亡まではいかなくても)はあちこちの精神科病院では起きていたと思われます。国際問題に発展したために、流石の政府も法律を改正して行くことになりました。

2012-10-28 15:01:40
@rain_00

そうして、1987年に「精神保健法」が制定されました。ここでようやく精神障害者本人の同意に基づく任意入院制度を創設。応急入院制度を創設、精神医療審査会、入院時等の書面による告知義務規定の新設、精神衛生鑑定医制度を精神保健指定医制度への変更、社会復帰施設制度等 大分改善されました。

2012-10-28 15:02:20