西洋天文ことはじめおよび東大前史
- murapyon71
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西洋天文ことはじめ
冲方 丁さんの小説「天地明察」は全編を通じて日食、月食の予言が大きなテーマになっている。苦闘の末に1683年前後に元朝の授時暦を修正し大和暦を考案したとある。ここで渋川春海がコペルニクス説やケプラーの法則をどの程度まで知っていたかどうかは微妙なところ。
2012-11-03 13:49:31そういう細部の拘わらずこの小説(と映画)「天地明察」は楽しめる作品だ。ある意味ホームドラマか純愛物だ。(もっとも下巻末に参考資料が挙げられている。)実際江戸初期や中期に西洋物理学と天文学がどの程度普及していたかは面白い問題で専門研究もあると思が、いざ首を突っ込むと大変だろう。
2012-11-03 13:52:408代将軍吉宗の時代に、宗教書以外の洋書の漢訳が解禁されたとのこと。オランダ語通詞の本木 良永がコペルニクス説などの西洋天文学書をオランダ語から翻訳し『天地二球用法』等を著したのが 1774年のこと。(ウィキペディアより)
2012-11-03 13:54:26@Exphysicist 渋川春海というと、天文方をおおせつかって、京の土御門家から造暦の権限を江戸に移した、東大のご先祖様みたいな感覚がありますね^^ 渋川春海は授時暦の数理を理解出来なかったとあるので、天文的な知識という意味では関孝和が随一だったようです。
2012-11-03 14:35:15@Exphysicist 『天地明察』の参考資料をみると、一次資料である『任癸録』『新盧面命』『春海先生実記』が挙げられていないのが、おしいかな、と思ってます。小説としては面白いのですけども。
2012-11-03 14:41:19@murapyon71 冲方 丁さんの小説では渋川春海と関孝和は親交があったことになってますね。彼らの活躍した1680年頃は西洋でコペルニクス説、ケプラー説、ニュートン力学、微積分法など出そろった時期ですね。これらのどれ一つとして二人とも知らなかったと思います。
2012-11-03 15:48:58@Exphysicist 春海が西洋天文学を伝える『天経或問』で近日店が移動することを知った、というのが数少ない西洋天文学についての記載なわけですが、次の世代の吉宗が西洋天文学を導入した暦法を意図していたが、人を得ず世を去ってしまった。 (つづく
2012-11-03 16:39:01@Exphysicist 寛政七年に至時らが『暦象考成後編』を参考に寛政暦にとりかかる、とありますので、西洋の天文学を本当の意味で理解するに至るのはそうとう後のようですね。
2012-11-03 16:39:13@murapyon71 貴重な知識を有難うございます。まとめるとこうなりますか?明末に中国にいたイタリア人宣教師熊三抜(Sabathin de Ursis)から教わった西洋天文学の知識をイエズス会士の影響下にある游子六が1675年に『天経或問』にあらわした。⇒
2012-11-03 17:41:18@murapyon71 ⇒だがカソリックの影響下にあったのでティコ・ブラーへの天動・地動の折衷説であった。渋川春海はそれを見ていたようだ。享保の改革以後西川正休が訓点をつけて出版してから、全国に(或る程度)広がった。この本は本格的な太陽中心説ではなかった。
2012-11-03 17:43:08@Exphysicist 春海は『天文或問』について「遊子の暦法、怪異甚し、蓋し蛮人の遺毒か」と酷評しており、どうやら西洋天文学には理解を示していなかったようです。『天文或問』に触発されて中井履軒は『華胥国暦』、山片蟠桃は『夢の代』、本田利明は『西域物語』を著したとあります。
2012-11-03 21:49:37@Exphysicist 春海の時代において西洋天文学を伝えるほとんど唯一の使える書とありますので、西洋の学問に興味を抱いた徳川吉宗のはたした役割というのは大きかったのですね。
2012-11-03 21:50:19@murapyon71 春海の生涯は(1639-1715年)。そのあと 吉宗の享保の改革(1716-1745年)で宗教書以外の漢訳洋書が解禁になった。で、春海は禁書の『天経或問』を読んでたことになり、それは面白いことです。吉宗以後はこの本もベストセラーになった書いてとあります。
2012-11-03 22:25:35@Exphysicist 西川正休の父忠英は長崎で天文学を講じていたとありますので、長崎は特区だったのですかね?僕はちょっとここら辺の知識が無くて…f^^; (つづく
2012-11-03 22:48:08@Exphysicist 吉宗の時代に、幕府は西川正休を招聘し『天経或問』を講じさせ、天文方に登用した、とあります。これがベストセラーになったきっかけですかね。
2012-11-03 22:48:18『天経或問』も『暦象考成』も明末に中国に来たイエスズ会系の宣教師がもたらした西洋天文学を解説した漢籍で、不徹底なコペルニクス説とケプラーの法則が述べられている。江戸時代の天文方の暦学者などはこれらを学んだ。日本での古典力学の本格的な摂取が200年ほど遅れた不思議。
2012-11-03 19:52:52@Exphysicist 寛政暦法を手がけたのは山路徳風、吉田靭負、奥村郡大夫、高橋至時らが手がけたとありますが、中心となったのは高橋至時で、至時が死ぬと暦理を理解出来る人がいなくなったとありますね。 (つづく
2012-11-03 21:19:03@Exphysicist 寛政暦の暦理を書した『寛政暦書』『続録』を完成させるのに天文方がこぞって四十年かかったとあります。吉宗の意図が実現しなかったことや、暦理のことから察すると一人の天才が現れないと事が進まなかったり、天才が没すると知識が減ったりとしたことがうかがわれますね。
2012-11-03 21:19:10@murapyon71 寛政暦完成後『ラランデ暦書』を渡された高橋至時は本格的に西洋天文学を習得したかもしれません。そして明治以前の最後の天明暦へ。伊能忠敬への影響もあり、この本の幕末日本に与えた影響はとても大きいと思います。
2012-11-03 22:10:02@Exphysicist 『ラランデ暦書』は堀田摂津守個人の蔵書であったとありますね。堀田が至時に十数日貸し与えて調査をしたようですが、中途半端で終ってしまった、後に幕府がこれを入手し、ふたたび至時の手に。 (つづく
2012-11-03 22:32:41@Exphysicist しかしわずか半年で至時が亡くなってしまい、残された至時の調査書『ラランデ暦書管見』をもとに、至時の長男景保、次男渋川景佑が翻訳事業を継いだとあります。天保七年に翻訳『新巧暦書』が完成。中国が依然として外国人宣教師による漢訳本に頼るかたわら、 (つづく
2012-11-03 22:34:05