防人の鹿島神宮からの鹿島立ちについて

防人の鹿島神宮からの鹿島立ちについてまとめ
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武文研/居合文化研究会@川村景信 @kawamurakeishin

日本における剣術の興りは飛鳥時代になる。これは鹿島神宮で「鹿島立ち」が行われたことに因っている。天智2年(663)の『白村江の戦い』で大敗した倭は失った兵員を補うために集めた素人に即応の戦闘法を教える必要性に迫られる。 / 鹿嶋神社の歴史 http://t.co/vO59AGVi

2012-11-06 23:39:20
武文研/居合文化研究会@川村景信 @kawamurakeishin

「鹿島立ち」のくだりで言いたいのは『寺社勢力』の前史の構図として、軍制・軍学を独占したわけではないということ。あくまで「即応に供する武器術(剣・矛・弓など)を教える機関」として機能したということです。当然、神官がそこまで実戦的なことは教えられなくて儀式的なものだったかも知れない。

2012-11-07 09:37:48
ちていのき @baritsu

韻文だし選集だから割り引くとしても、防人歌では、非常にあわただしくバタバタと出発して妻や子供が泣きわめくわけで、訓練も参拝もした様子は伺えませんね RT @bubunken_web: 「鹿島立ち」のくだりで言いたいのは『寺社勢力』の前史の構図として、軍制・軍学を独占したわけではな

2012-11-07 20:48:49
武文研/居合文化研究会@川村景信 @kawamurakeishin

何で読んだんだったか、剣術史が鹿島・香取から出た理由について、正直ワカランって話がある。tweetしてきた内容から、『白村江(663年)』以降に鹿島で剣術が盛んになった訳で、武神を祭っているのは後から気付いた、位なのだ。

2012-11-07 10:51:19
ちていのき @baritsu

律令制下軍団の歩兵の訓練は年間60日か。これで弓、矛、剣をやるんだから新兵訓練所程度だな。弩を扱うのは50人の隊中で選ばれた強そうな奴2人のみ、というのはまんま軽機だ。

2012-11-07 03:57:32
ちていのき @baritsu

訓練があったとしたら、防人勤務を終えて、非道の現地解散から無事帰ったものが、次の者のためにある程度の訓練をしたという可能性もあるでしょうね。この時期で神官というのは現実問題かなり無理があるかなー RT @bubunken_web:

2012-11-07 20:51:57
ちていのき @baritsu

鹿島立の元とされる歌は「霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍我は来にしを」だけど、これって「故郷の鹿島の神に無事を祈りつつ旅をして、とうとう筑紫に来て防人になりました」だから、出立の際に云々とは言ってないよなぁ

2012-11-08 03:21:15
ちていのき @baritsu

「天地の神を祈りて猟矢貫き筑紫の島を指して行く我れは」下野国の人の歌だが、単に天地の神々だな

2012-11-08 03:36:27
ちていのき @baritsu

「天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ」下総の人。今の成田あたりだそうだが「いったいどの神様に祈ったら、また母と話せるんだろか」と言った具合だ

2012-11-08 03:41:48
ちていのき @baritsu

万葉防人歌を詠んだだけでは何とも言えないけど、「鹿島立」が明確に出てくるのって菟玖波集(1356)の「けふの渡りの舟のかぢとり これぞこの旅のはじめの鹿島立」なのかなぁ

2012-11-08 04:16:45
ちていのき @baritsu

廿二社本縁(1515頃)「今日和可登行久在計禮被仰、鹿島立志天候都申寸、自鹿島立和始学留也」か。ちなみに古い辞書だと、鹿島香取の神の天孫降臨云々の次に「一説」として「昔、旅の門出に、途上の安全を鹿島にある阿須波神に祈りたればいふ」とある

2012-11-08 04:31:10
ちていのき @baritsu

江戸中期の和訓栞には、鹿島の神に御饌を捧げると旅の途中で飢えに苦しむことが無い、と世間で言われているとあるそうだ。どうも鹿島立に旅の安全、平穏祈願の意味が出てくるのは鎌倉頃で、武運云々というのは万葉集の注釈書の「詞林采葉抄」(1366)あたりから拡大されたものっぽいな

2012-11-08 04:50:39
ちていのき @baritsu

素人調査だからはっきりとは言えないけど、防人の時代に鹿島神宮に集まって安全や武運長久を祈ったなんてことはまず無さそうだな

2012-11-08 04:58:17
ちていのき @baritsu

養老律令…「軍団の大毅少毅は…及び庶人の武芸を称えられる人を取って充てること。校尉以下には、庶人の弓馬が得意な人を取ること。主帳には、書算が巧みな人を取ること」原文でも「及庶人武芸可称者充」で「武芸」と書かれている。

2012-11-08 05:28:10
ちていのき @baritsu

当時の農民は屯田兵みたいなもんで、農業専従者じゃなかった、みたいな説もあるようです。そうなると防人が自分で武器持っていくのも頷けるとか  RT @saraquel2: 家伝技術みたいな感じだったんですかねえRT @baritsu 養老律令…「軍団の大毅少毅は…及び庶人の武芸

2012-11-08 17:23:11
ちていのき @baritsu

日本律令軍制の基本構造 「兵士装備の「自備」とは、決して入軍時に自己調達した思い思いの武器で装備するということではなく、入軍時に代価を徴収され、国衛が統一規格にもとづいて制作した装備の配給を受け、軍団兵庫に収納しておくことだったと思われる」 だよなぁ…

2012-11-08 19:54:11