山本七平botまとめ/【最後の言葉】虚報を事実だと強弁し、冤罪の犠牲者を殺人鬼に仕立て上げたマスコミの言う「反省」とは
- yamamoto7hei
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1】(手紙省略)~自分の体験、自分の幸運、そしてこの人達と同じように処刑されて行った人びと、それらを思うと、一種、胸に迫る手紙である。 人は明日の運命を知ることはできない。 それは個人であれ、民族であれ、同じことであろう。<『私の中の日本軍』
2012-11-11 21:57:472】無錫の食後の冗談のとき、彼はそれが、自分を処刑場にひっぱって行こうとは夢にも思わなかったであろう。そしてもしそれを予言する者がいたら、彼自身がその人を気違いと思ったであろう。 未来がそのように予知できないという点では、昔同様今も変りはないのである。
2012-11-11 22:28:053】繰り返す必要はないと思うが「南京大言殺」がまぼろしだという事は、侵略が正義だという事でもなければ、中国にそしてフィリピンに残虐事件が皆無だったという事ではない。それは確かに厳然としてあった。第一「恩威並び行われる皇軍」などというものは、私の知る限りではどこにも存在しなかった。
2012-11-11 22:57:464】だがそのことは、隆文元弁護人がのべているように、二人の処刑を、そしてまた私の知る多くの無実の人の処刑を、絶対に正当化はしない。
2012-11-11 23:28:055】それを正当化することはまず、本当にあった事件を隠してしまうだけであり、ついで犠牲者がいるとなると、今度はこういう犠牲者に便乗して、本当の虐殺事件の張本人が、ヌケヌケと自分も戦争犠牲者だなどと言い出すことになってしまうからである。
2012-11-11 23:57:486】現にその実例があり、私には少々黙過できない感をもっている。虚報に虚報を上塗りし「百人斬り競争」を「殺人ゲーム」でなぞっていると、そういう全く不毛の結果しか出てこないのである。 だがこれについては辻政信復帰の場合を例として「文藝春秋」で記したから、これ以上はここではふれまい。
2012-11-12 00:27:537】南京大虐殺の「まぼろし」を追及された鈴木明氏のところへ「反省がない」といった手紙が来たそうだが、この世の中で最も奇妙な精神の持主は、そういった人びとであろう。
2012-11-12 00:57:418】第一に、反省とは自分の基準で自分の過去を裁くことのはず。 従ってそのことはあくまでもその人の問題であって、他人は関係はない。まして国際情勢も中国自体も関係はないはずである。両国の間が友好であろうと非友好であろうと、そんなことによってその人の反省が左右されるはずはあるまい。
2012-11-12 01:28:029】確かに明日のことはわからない。 「親アラブ」で既に一部の雑誌で岡本公三が英雄化されているから、また情勢が一変すれば、太平洋戦争は「アジア解放の聖戦」で、向井・野田両氏は殉国の英雄で、南京軍事法廷こそ不法で暴逆だと言い出すことになるかも知れない。
2012-11-12 01:57:4310】確かにこの法廷は、完全に批判をまぬがれることは不可能だからである。そしてそういう時代が来れば、いま「反省がない」といって決め付けているその人が、真っ先にまたその「時代の旗」を振るであろうことは、浅海特派員のその後の経歴がすでに証明していると言ってよい。
2012-11-12 02:27:5211】私自身は、そういう奇妙な「反省」なるものを、初めからはっきりお断りしておく。 反省とはその基準を自らの内に置くものだから、たとえ世の中がどう変ろうと、私は、今まで自分が書いてきたことに対して、浅海特派員が自分で書いた記事に対して自ら採ったような態度をとる気は毛頭ない。
2012-11-12 02:57:4012】「週刊新潮」には次のように記されている。 《便乗主義者にとって最もやっかいな相手は、自分自身の言動なのであった。最後にもう一度、浅海氏が発言を求めてこられたので加える。
2012-11-12 03:27:5313】「戦争中の私の記者活動は、軍国主義の強い制圧下にあったので、当時の多くの記者がそうであったのと同じように、軍国主義を推し進めるような文体にならざるを得なかった。そのことを私は戦後深く反省して、新しい道を歩んでおるのです」》
2012-11-12 03:57:4114】これが「反省」なのか、 これが「反省」という日本語の意味なのか。 もしそうなら、こういう意味の「反省」をする気は私には毛頭ない。
2012-11-12 04:27:5415】また「懺悔」という言葉もさかんにロにされた。 しかしこの言葉が、『罪と罰』にあるように「四つ辻に立って、大声で、私は人を殺しましたという」といったことを意味するなら、この「百人斬り競争」という事件だけをとってみても、一体全体どこに懺悔があるのか。
2012-11-12 04:57:4016】四つ辻に立って、大声で、私は虚報を発して人を処刑場へ送りました、といった人間が、関係者の中に一人でもいるのか。 もしいれば、それは懺悔をしたといえるであろう。 だが、そういうことは、はじめから関係者のだれの念頭にもない。
2012-11-12 05:27:5417】それどころか、虚報をあくまでも事実だと強弁し、不当に処刑場に送った者の死体を自ら土足にかけ、その犠牲者を殺人鬼に仕立てあげているだけではないか。 それは懺悔とは逆の行為であろう。
2012-11-12 05:57:4118】また本多勝一記者の「投入ゲーム」を読んで、多くの人は「こういう事実を全然知らなかった」と言った。 そういっているその時に、まだその人自身が、実は自分が何の「事実」も知っていないことになぜ気付かないのか。
2012-11-12 06:27:4919】それでいてどうして、戦争中の日本人が大本営発表を事実と信じていたことを批判できるのか。 「百人斬り競争」を事実だと信じた人間と「殺人ゲーム」を事実だと信じた人間と、この両者のどこに差があるのか。
2012-11-12 06:57:4420】こういったさまざまな問題の解明に対して、向井・野田両氏は、その生命にかえて実に貴重な遺産をわれわれにおくってくれた。またK氏はよくそれを持ち帰ってくれた。
2012-11-12 07:27:5521】それがなければ「百人斬り競争」も「殺人ゲーム」も、そしてその他のこともすべて「事実」として押し通され、結局すべては戦時中同様にわからずじまいで、探究の手がかりが何一つなかったであろう。 しかし処刑の直前によくこれだけのことができたと思う。
2012-11-12 07:57:4122】向井・野田両氏のような運命に陥れば、人はもうどうすることも出来なくなるのが普通である。 自分が無実で、虚報で処刑されることは、その本人たちがだれよりもよく知っている。そしてそれゆえに、余計にどうにもできなくなる。
2012-11-12 08:28:0723】何を言っても、何をしても無駄だという気になってしまう。 前にものべたが、処刑直前の前述のN大尉の状態が、それをよく示しており、現実と夢とが混合していく一種の錯乱状態は、向井少尉の遺書にも見られる。「十五、六日」という問題の日付にはこれも影響していよう。
2012-11-12 08:57:4524】一切は奪われていく。 法の保護も、身を守る武器も、そして最後には自分の精神さえ。 しかし、そのとき、はじめて人は気づくのである。
2012-11-12 09:28:0525】すべて奪われても、なお、自分か最後の一線で渾身の力をふるってふみとどまれば、万人に平等に与えられている唯一の、そして本当の武器がなお残っていること。 それは言葉である。 もうそれしかない。 だが、自分で捨てない限り、これだけはだれも奪うことはできない。
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