後漢末の豪族と国家の駆け引き

タイトルどうりです
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dara3 @daradara3594

皇帝直々の公車徴を受けると、いきなり令になれるみたい。

2012-11-15 11:11:33
dara3 @daradara3594

@sweets_street 公車徴したけども、適当なポストが空いてないという時、とりあえず議郎にプールしてたんでしょうね。

2012-11-15 16:23:02
お菓子っ子 @sweets_street

@daradara3594 皇甫嵩は公車徴→議郎→太守、楊彪は公車徴→議郎→侍中と昇進しています。皮肉な言い方をしたら、「うまいこと自分を高く売り込んだな」って感じです

2012-11-15 16:24:54
dara3 @daradara3594

@sweets_street 太守や三公じゃダメだ、もっと上を呼んでこいって事ですよね(笑) より高い厚遇を求める豪族と、何とかして体制内に引き込んで豪族の首に鈴つけたい国家の綱引きですね。

2012-11-15 16:28:46
お菓子っ子 @sweets_street

@daradara3594 皇甫嵩も楊彪も名族中の名族だから、こういう駆け引きができたんでしょうね。俊才と名高い名門の嫡子なんて、出仕させられなければ「野に遺賢なし」を目指すべき皇帝の沽券に関わるし

2012-11-15 16:32:26
dara3 @daradara3594

@sweets_street 魏が執拗に管寧ら隠者を辟召し続けたのも、国の面子をかけた勝負だったんですね~。

2012-11-15 16:36:30
お菓子っ子 @sweets_street

@daradara3594 「あれだけ有名な賢者がなぜ帝にお仕えしないのか。仕えるに値しないと思っているのだろうか」と皆が噂して、皇帝の徳を疑われますからね。逆に仕官しないことが不支持の意の表明にもなるわけです。嵇康が処刑されたのも司馬氏政権への仕官拒否という伏線あってのことです

2012-11-15 16:41:27
dara3 @daradara3594

@sweets_street そうすると、後漢書で隠逸伝という新たなジャンルが立てられたのも「こんなに沢山の賢人に見捨てられる程、後漢末期は終わってたんだ」て意味があるのかもですね。魏略にもどうも似たような列伝が立てられてたようで、気になるところです。

2012-11-15 16:46:00
お菓子っ子 @sweets_street

@daradara3594 許由と堯、伯夷・叔斉と周の武王のように、隠者はしばしば権威への不服従の象徴として用いられてきました。王朝の徳に疑念を差し挟む時、「あれほどの賢人が仕えなかった」というのが根拠の一つになります

2012-11-15 16:50:47