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  • full_thanks
    ひとの心を傷つけて 喜ぶ心さびしき者に 聞く耳もなかろうから、中傷された君に言う。 蠅(はえ)たちの集まりでは、蝶(ちょう)も「キモイ」と陰口をたたかれるだろう。 心ない者たちのうちにも 自分と同じ美しさを探しつつ、君はひとり、大人になればいい。(from読売新聞編集手帳Ad)
  • M_Zundel_bot
    十字架の前で私たちが見る善は、愛すべき「だれか」であり、回心の日にアウグスティヌスが語った、つねに古くて新しい「美」として私たちの心の奥底で待っていてくださる、あの「現存」です。
  • MotherTeresabot
    「主よ、あなたを愛します。主よ、お許しください。主よ、あなたを信じます。主よ、あなたに頼ります。あなたがわたしたちを愛してくださるように、わたしたちも互いに愛し合えるようお助けください」と祈ればいいのです。祈りを通じて学びあうとき、そこからあなたの力が生まれてきます。
  • M_Zundel_bot
    私たちがこうも生ぬるいのは、私たちが善のなかに外的な要求を見、倫理のなかに人を強制させ、従わせ、その支配力を見せようとする規則しか見ないからではないでしょうか?
  • M_Zundel_bot
    十字架を保存し後に伝えることが問題なのではなく、十字架に基づいて、私たちの生活の中で神を十字架から解放し、私たちにあふれるほどのいのちを与え、愛と喜びに招いてくださる神としてあらわすことが重要なのです。
  • MotherTeresabot
    生きているのはわたしたちではなく、わたしたちのうちに生きるべきお方が生きておられるのです。わたしたちの中でイエスにご自分の生き方を生きていただくこと、それが祈りです。イエスにそうしていただけばいただくほど、わたしたちはキリストに似た者として成長していくのです。
  • M_Zundel_bot
    神は母であり、すべての母親を集めたよりも無限に母であり、その母性的な正義が限度を知らない罪悪を無限の無垢で置き換える母親なのです。
  • M_Zundel_bot
    十字架は、私たちを力づくで納得させたり、人の心の奥を侵したりすることはできないけれども、抵抗し得ない愛の招きなのであり、それ以外の意味を持ってはいません。
  • M_Zundel_bot
    十字架の犠牲は、神の怒りを和らげたり、神の復讐を遂げさせるためのものではなく、拒絶する世界には自分を与えることができない神の愛に出口を与えるものなのです。
  • MotherTeresabot
    祈りは喜び、祈りは愛、祈りは平和。
  • M_Zundel_bot
    十字架で死ぬのは神です。私たちが愛を拒むことによって追放され、死ぬのは神です。十字架は私たちが何をしようと愛深く、包み待つことをやめず、倦むことなくやさしい永遠の承諾を与える神を示しています。
  • MotherTeresabot
    キリスト教徒もイスラム教徒もヒンズー教徒も、信じている人も信じていない人も、誰でも共に愛をもって働くことができます。誰でも共に愛することの喜びを分かち合い、神がともにおられることに気づくことができます。その時…(続)
  • MotherTeresabot
    (続き)その時、ヒンズー教徒はより良いヒンズー教徒に、イスラム教徒はより良いイスラム教徒に、キリスト教徒はより良いキリスト教徒になれるのです。
  • aumicci
    なにかにつけ『しないよりマシ』と語る方は本当にちゃんと言葉を考えているのか。『マシ』って、意味と根拠はあるのですか。塵はいくら積もっても山にはなりませんよ。私の一番嫌いで恥と思う言葉です。何にも考えていない事だけがハッキリする言葉です。
  • MotherTeresabot
    こころを新たにする一番確かな方法は、ゆるしの秘跡を受け、ご聖体を拝領して、主と一致することです。そのとき、わたしは平和で満たされます。
  • M_Zundel_bot
    信仰とは、私たちがする何かではなく、私たちが「在る」ことなのです。
  • MotherTeresabot
    祈りの実りは、信仰の深まりです。信仰の実りは愛です。愛の実りは奉仕です。しかし、祈るためには、こころの静けさが必要です。
  • M_Zundel_bot
    私たちのうちに私たち以上のものがあり、周りの人々が私たちのうちにすぐに神の現存を感じるなら、そのときにこそ、私たちはキリスト信者なのです。
  • M_Zundel_bot
    主と同じものになりたいという熱望をもって主を眺めながら、自分を消す恵みを願いましょう。キリスト者には、ただ一つの規則しかありません。「私の代わりにイエスなら、今、どうなさるだろうか?今、何をなさるだろうか?」
  • M_Zundel_bot
    神の前では、自分が完全に理解されているのを感じるでしょう。神の中で私たちは完成されます。私が唯一であるとの意識は、神のおかげによるものです。神が私たちの神秘を尊重され、神との私たちのかかわりは、愛の秘密だからなのです。
  • M_Zundel_bot
    相手の自己愛を尊重しなければなりません。それは神秘の情感であり、永遠の秘密の薄暗い意識、自己のいのちの価値を信じる要求、すばらしい無限の存在の予感だからです。
  • M_Zundel_bot
    ああ、だれかの自己愛を敵に回すなら不幸なことです。だれかの自己愛を傷つけるなら、もう終わりでしょう。他の人々に近づくには、いわば、つま先立ってそっと歩かなければなりません。大災害をも起こしかねないからです。
  • M_Zundel_bot
    緊張した顔つき、特色のない顔つき、心を閉じた顔つき、敵意のある顔つきの人が目の前にいるとしましょう。その顔が変容されるためには、心からの愛と尊敬をもって迎え入れるだけで足りるのです。
  • M_Zundel_bot
    まず、自分のいのちに対する信仰があり、自己愛の中には私たちが何かであるということの、ある特別な秘密の意味があるのです。私たちは、かけがえのないものです。人は自分を他人の代わりに置くことはできません。
  • M_Zundel_bot
    したがって、自分に対する何らかの愛、なんらかの自信がなければ、生きていることは不可能でしょう。だから、自己愛を傲慢のように思うのは、ほんとうにまちがっています。確かに傲慢はあります。しかし、傲慢というものは、人が考えるよりもずっとまれで、むずかしいものです。
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