(追記あり)渡邊芳之さんの「いじめ」と「日本人の美風」論に対するつっこみ
背景;さかもと未明問題を発端とした「いじめ」に関する渡邊芳之先生の話
渡邊先生の意見は、上記のまとめやhttp://twilog.org/ynabe39などでご確認ください。
以下は、その流れ全体を受けての話です。
本題
わいなべ先生のいじめ論は、さかもと未明叩きと学校でのいじめ問題が同根の背景で起こってる事象だって話にはまったく同意するんだけど、それらを全部まとめていじめと呼んでしまうと狭義のいじめを語りたいときにややこしくなるから別の名称をつけて欲しい気もする。
2012-11-22 23:42:06昼間も書いた「文科省のいじめの定義の問題」も,文科省は以前はいじめをおよそ「弱い者から強い者に継続的に与えられる暴力で,受け手が深刻な苦痛を感じているもの」みたいに定義していたわけ。
2012-11-23 01:08:56その結果いじめがあっても先生方が生徒に「苦痛じゃないよな?大丈夫だよな?」と確認して「はい,大丈夫です」と言えば「深刻な苦痛を感じているわけではないのでいじめではない」と報告するわけ。それで文科省は「いじめの定義」からそこを削除したのね。
2012-11-23 01:09:53かといっていじめという言葉の範囲を広げすぎるのも逆の問題が生じるよな。道路の制限速度みたいに、この速度は厳密には違法だけどこのくらいはおっけーなんだよ、みたいな感じで。
2012-11-23 01:13:00ここから会話
日本の繁栄とか平和とか安全とかいろいろな「よいもの」が「日本社会がいじめ体質である」ことによって支えられていることを抜きにいじめの問題は考えられない。
2012-11-22 07:37:25これを突き詰めると、「いじめには良い側面もあるんだから、ある程度のいじめは許容していこう」となりがち。RT @ynabe39: 日本の繁栄とか平和とか安全とかいろいろな「よいもの」が「日本社会がいじめ体質である」ことによって支えられていることを抜きにいじめの問題は考えられない。
2012-11-23 01:23:17@tari_tipa 現実に「ある種類のいじめ,ある程度のいじめ」は明確に許容されているではないか,というのが私の言っていることです。そして「許容されるいじめ」は「これはいじめではない」とされる。
2012-11-23 01:25:37@ynabe39 おっしゃることは理解できてるつもりです。ただ、「いじめ」という言葉に「許容されない」という意味が内在されちゃってるのも一方で現実なんだと思います。だから言葉の定義論で空回りしてしまう。「許容されているいじめ」と「許容されないいじめ」には違う用語を使うべきかと。
2012-11-23 01:31:07@tari_tipa それが警察の都合で突然摘発されたりするし,逆に警察関係者はうんと違反してもお目こぼしになったりするじゃないですか。「程度問題」で美風を認めるということは「いじめとして対策されるかいじめじゃないとして許容されるかが誰かの恣意によって定まる」ということなんです。
2012-11-23 01:40:43@ynabe39 ええ。いじめにしても線引きは各人でどこかにあって、もちろんそれは人それぞれ違うものです。でも、線引きが恣意的だからといって線自体をなくしてすべてを「いじめ」にしてしまうことも、対策すべき問題にとって意味があることとは思えません。
2012-11-23 01:44:27@tari_tipa 問題はその「対策すべき問題」がどこからどこまでかが「恣意的に決まる」ことです。いじめの対象となる人が苦しみを訴えていても「これはいじめではない」と決められてしまえば対策はされないのです。
2012-11-23 01:46:03@ynabe39 では、「苦しみを訴えている」ことを線引きにしたらどうでしょう。対策を立てるにはどこかで線を引く必要があり、その線からはなるべく恣意性を排除する必要がある。そこで全部がいじめだから対策は臨機応変にと言われると、恣意性を最大限に取り入れようという意見に私にはみえます
2012-11-23 01:51:55@tari_tipa 提案するまでもなく建前上は「やられているほうが苦痛を訴えればいじめ」とすでに決められているわけです。でも実際に行なわれているのは「苦痛を訴えるな,訴えるくらいなら自分で死ね」ということです。
2012-11-23 01:55:29@ynabe39 現実はそのとおりですね。それが「日本の美徳」と表裏一体的なところがあるのもわかります。ただ、それが「いじめ」概念を(さかもと未明や暴力団に適用できるほどに)拡張すれば解決する方向に向かうのかどうかがよくわからないところです。
2012-11-23 02:00:59