川俣町の未来をさぐる――ふくしま復興支援フォーラム第24回の記録
- myriel_june
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チェンバおおまちなう。ふくしま復興支援フォーラムの例会、今日は川俣町長古川道郎さんのお話。今、厚い資料が配られたところ。(今日はtsudaりません)
2012-11-26 18:26:15本日のふくしま復興支援フォーラムは、川俣町長古川通郎さんのお話でした。以下、内容の概略をツイートします。ややお声が聞き取りづらい箇所がありましたので、細かい部分で誤りがあるかも知れません。 http://t.co/PTbGQk2S
2012-11-26 23:21:15平山勉さんの実況ツイートは、もちろん時間的には先行していますが、以下では内容を合わせて配置します。
ちなみに川俣町はここです。飯館村のとなり。山木屋地区は年間20mSvを超える計画的避難区域。 http://t.co/Hr1Jxihu
2012-11-26 18:55:04古川通郎・川俣町長「川俣町の現状。山木屋地区が避難区域に。ここは町の人口の1割程度。その他の地区はふつうの生活も残っている。両方があるので、施策も二つ必要になり、お金がかかる。だが、川俣町の避難は、他の地域と違って知られていない。関心が薄れていく危惧を抱いている」
2012-11-26 23:21:28古川「避難実施の際には、各省庁からの応援があった。国も一生懸命になってくれた。問題は今後。支援は今も続いているが、東北管区からの応援は三ヶ月のローテーション、中央からの人は3週間。継続性がない。町でも専門の職員を配置して、苦しい中でやっているところ。」
2012-11-26 23:21:42古川「震災当日の話。地震は長かった。すぐ対応をということで、役場は危険だったので、保健センターに対策本部を設置した。真っ先に学校関係を手配。中学校は卒業式当日だった。体育館は天井が落ちた。式の最中でなくてよかったと思った。校舎は3月はじめに耐震工事。間に合っていてよかった。」
2012-11-26 23:22:12古川「12日になって、双葉町から連絡があった。「町民7000人を受け入れてほしい」。原発については情報がなく、寝耳に水。対策本部に浪江町からも連絡があり、各小学校等11カ所へ。停電中で寒い中、右往左往しながら準備した。カードを出して、浪江の人はこちら、双葉はこちらと誘導した。」
2012-11-26 23:23:16古川「夜になって真っ暗闇の中、対策本部に「なんとか避難所には入れないか」と乳児を抱えた母親が来たりした。」(注:ここのところ、不正確かも知れません。)
2012-11-26 23:23:56古川「避難者は最大6000人ほど。食べものの準備がたいへんだった。電気がつかず、給食センターの機能が不十分な中、当面何とかおにぎり数百個を手当てした。さらに米を町内でかき集め、女性団体(注:婦人会のことか)とボランティアで1回の食事六千個のおにぎりを作った。一日だと一万八千個。」
2012-11-26 23:24:54このときの避難の概況は、鈴木典夫・丹波・高橋で社協の方から話を聞いています。『論叢クィア』5号の原稿に、ややブンガク的な文体で書きました。川俣町を訪れたのは3月14日で、このときは4500人の避難者が浜通りから来ているということでした。
2012-11-26 23:28:17参考までに避難所と収容人数:南小(浪江500人)、川俣小(双葉1100人)、旧小島小(双葉700人)、川俣高(双葉・浪江500人)、飯坂小(双葉606人)、川俣町合宿所(双葉350人)、福沢集会所(双葉・南相馬・大熊48人)、保健センター(南相馬14人)(続く)
2012-11-26 23:29:49(続き)富田幼稚園(南相馬・浪江4人)、鶴沢公民館(双葉150人)、福田小(双葉450人)。そのほか、金松寺(数人)にも。富岡からも7人ほどという情報もありました。収容しきれなかった人は、船引高校、福島市南向台小、三中、パルセいいざか等へ。
2012-11-26 23:33:50話の続き。古川「グリム(注:町内のパン製造業)に頼んでパンを焼いてもらおうと思ったが、小麦粉が足りない。なんとか菓子パンならということで、朝の分だけ用意してもらった。」
2012-11-26 23:34:56古川「双葉町は、その後さいたまアリーナへ移動した。3日目に電気がとおった。この間、避難所の近所の人たちも自主的に支援してくれた。生活用品や着るものの提供、炊き出しなど。役場でどうしてくれと言ったわけではなく、自主的な、町を挙げての対応だった。」
2012-11-26 23:35:35古川「町丸ごとの移動で、衛生、健康面でも大変。医師と相談しながらとにかくフル稼働で対応したが、薬がなくなり、県にお願いして入手した。燃料もなく、お風呂に入れたのは5日目(いきいき荘の設備で)。赤ちゃんは手分けして周囲の家でということにしたが、足りなかった。」
2012-11-26 23:35:59古川「山木屋の問題。浪江に隣接していて、町民の間で不安がつのっていた。当時は年50mSvが避難の基準で、山木屋には屋内待避指示も出なかった。町民からはいろいろいわれたが、(注:町独自での避難は)難しかった。半数ほどの人が自主避難をした。これは消防団で各戸を回ってチェック。」
2012-11-26 23:37:37古川「チェックしたのは、避難できない一人暮らしの高齢者の生活を心配したため。民生委員などで訪問をした。この間、「町長の子どもはどうした。どこかへやったのではないか」と非難もされた。実は自分は(妻と?)二人暮らしで、子どもは近所だが別に住んでいる。そのことを話して理解してもらった」
2012-11-26 23:38:18古川「まず子どもをということで、山木屋から川俣の中心部へ学校を移動(小中幼)。山木屋から通う子と、合宿所に宿泊する子と、二つに分かれた。通学にはバスを出した。」
2012-11-26 23:48:17