福島で起きたこと まだ終わっていない原発事故

@obatyan1さんが振り返るフクシマ
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obatyan @obatyan1

あの日、3月12日の夕方。我が家はBBCのニュースサイトで第一原発一号機の爆発を確認。その時NHKのテレビ画面には平穏な1~4号機が映し出されていました。あの時の恐怖は一生忘れない。「情報統制」がこの時代にも行われるという事を確信。それでも原発再稼動に賛成ですか?

2012-12-08 14:48:23
obatyan @obatyan1

選挙戦最終日 あの日、あの時を思い出しながら、あの時から1年9ヶ月を振り返る。多少ランダムになりつつ、気持ちを整理するのに必要な作業。 

2012-12-15 08:41:44
obatyan @obatyan1

3月11日 被災 家族全員無事が確認できたのは夕方。停電。断水。近隣の老人世帯に声をかける。セブンイレブンが果敢に店を開けていた。カップ麺、水、乾電池、ガスボンベを購入し、老人世帯に水とカップ麺を配る。子どもと、孫たち全員我が家に集合、夜を明かす。

2012-12-15 08:45:43
obatyan @obatyan1

3月12日 紙おむつ、水を入れる容器を購入するためにホームセンターに並ぶ。約2時間、整然と駐車場に並ぶ人々の姿。壊れた店内から商品を探して持ってくる店員さんの姿。思わず、「お店開けてくれてありがとう」と声をかける。子どもたちは水を汲んだり着替えを取りに行ったりして夕方全員集合。

2012-12-15 08:50:31
obatyan @obatyan1

3月12日夕方4時ごろ おにぎりを作る。とりあえずご飯があれば生きていけると何となく思う。夫「原発の事は他国の情報の方が良いのでは?」と言い出し、婿がインターネットでBBCのニュースサイトにたどり着く。私、おにぎり作りの真っ最中。テレビは津波被害と平然と並ぶふくいち1~4号機。

2012-12-15 08:53:10
obatyan @obatyan1

3月12日夕方4時ごろ 婿「爆発してます!」テレビ画面は平然と並ぶ原発の映像。「メルトダウンと書いてあります。」その場で妊娠中の次女と婿、3歳の女児を抱えた長女らは避難を決める。東京八王子の親類宅を目指すことに。地震の影響が不明。高速道路は緊急車両のみ。無事行き着けるのか不安。

2012-12-15 08:56:52
obatyan @obatyan1

3月12日夕方 ここに残ると言うことは、死か、はたまた閉じ込められるのか?という不安がありながら、自分たちは残る決断。要介護5の母がいる。「たくましい日本の母になれ」と子どもたちを送り出す。もう会えないと思った。なぜならBBCでは80km圏内の避難を呼びかけていた。ここ60km。

2012-12-15 08:59:20
obatyan @obatyan1

3月12日夜 テレビを見る。枝野さんが似合わない作業服で「念のため10キロ圏内の避難」を呼びかけている。その時家の前の国道は既に車の列。大型バスや自家用車が続々と南下中。私は、自民党政権でなくてホントに良かった。と思っていた。なぜならきっとこの人たちは本当の事を言うと思ったから。

2012-12-15 09:01:41
obatyan @obatyan1

3月12日夜 枝野さんが度々テレビで呼びかける。「ただちに○○」が始まった。そっか~、大丈夫なのかぁ?と思いながら、夜を明かす。子どもたちは栃木の避難所で1泊。栃木は普通だという連絡に仰天。余震多く眠れぬ夜となる。

2012-12-15 09:03:32
obatyan @obatyan1

3月13日 母の薬をもらいに薬局に行く。町が崩壊していた。瓦や壁が崩れて足元が危ない。ガソリン不足のため歩くことに。夫、灯油の備蓄があったことを思い出し、灯油を吸いだす。近隣を回り灯油が必要な人に声をかける。夫は地震保険の事故受けのため仕事。私は町の情報集め。

2012-12-15 09:05:53
obatyan @obatyan1

この頃から、市や県の情報をインターネットで流し続ける。病院の情報、お店屋さんの情報。ある材料だけで作れるものを作ります。というお菓子屋さん。スーパーでは割り当ての食料を2時間以上並んで購入という話。小さいお店のほうが買い易いし商品がある。こういうときは地元のお店。

2012-12-15 09:09:29
obatyan @obatyan1

子どもたち無事八王子到着。私たちは以外に死ぬこともなかったし、何やらどこにでも普通に行けるようだ。不思議だ。福島空港から臨時便。北海道・大阪はわかるが羽田便が飛ぶ。これは「早く逃げろ」と言っているのだと思い、東京から来ている若い女性に声をかける。新幹線が那須塩原から東京行き運行。

2012-12-15 09:11:53
obatyan @obatyan1

3月20日頃 子どもたちの避難先を八王子市から栃木県に移す。中古住宅の空きを提供してもらったため。度々会いに行くことができた。だけど帰ってくることもできてしまう。「帰ってくるな」と言いつつも顔が見れるのはうれしい。

2012-12-15 15:17:44
obatyan @obatyan1

この間、私たちは度々津波被害の映像を見ることになります。被害者の声も聞きました。そうすると、自分たちが被災したことよりも、津波被害に遭われた方達の心情を思い、口が重くなります。東京から仙台に自転車でボランティアに行く青年を「放射能が飛んでる」と止めようとしたが聞き入れられず。

2012-12-15 15:20:26
obatyan @obatyan1

「こんな時だからこそ若い力が必要でしょう!」と言う青年に、「こんな時だからこそ自分を守りなさい。」と告げるも無駄に。手元にあったマスクを全部渡し、「せめてこれだけは着けて行きなさい。」と言って別れる。放射能の恐ろしさを若い人は知らないようだ。何なんだろう?と疑問。

2012-12-15 15:22:58
obatyan @obatyan1

4月に入ると気持ちがだんだん緩んでくるのがわかる。「もしかしたらこのまま何事も起きないのではないか」という希望的観測も出てくる。テレビでは相変わらず似合わない作業服を着た枝野さんが「ただちには影響がない」と言っている。そして、一時は大量に避難した若い人たちが戻ってくる。

2012-12-15 15:30:01
obatyan @obatyan1

学校が再開するためだ。学校は除染したのか?せめてキチンと掃除をしたのか?聞いてみると通常通りに始まるようだ。結局子どもたちに雑巾を持たせて掃除をさせる。何ということだ。こんなにも放射能に対して危機感のない行政は何なんだ!と日々怒り心頭。

2012-12-15 15:32:03
obatyan @obatyan1

この間、地震被害者に無利子・無担保の貸付が始まる。10万円または20万円が借りられるという情報をネットと電話でできるだけ多くの人たちに伝える。みんな知らない人のほうが多い。多少はみんなの役に立ったか?

2012-12-15 15:35:00
obatyan @obatyan1

あとはいつものように病院の情報、お店屋さんの情報などを淡々とネットで知らせていく。仕事は始まったが、安否確認が大変だ。電話が通じない人が多い。携帯よりは家電の登録になるので、こういう時は不便だと思った。

2012-12-15 15:36:56
obatyan @obatyan1

大事なことをわすれていた。確か3月16日くらいだったと思う、山下という大学の先生が長崎大学から福島にやってきた。放射線アドバイザー就任ということだった。それから度々ラジオで講演などを聞き、「年間100ミリシーベルトまでは大丈夫。」という話に「えっ?」と疑問が出てきた。

2012-12-15 15:39:49
obatyan @obatyan1

毎日どこかで講演をしていて、毎日ラジオで聞いていた。ある日妊婦さんが泣き声で、「本当に大丈夫なんですか?」と聞いたら、「そんなにいうならどこへでも行けばいい。」と答えた。「何ぃ!」と頭に血が上ったのを覚えている。「笑っている人は大丈夫。くよくよしてると放射能にやられるよ。」

2012-12-15 15:41:56
obatyan @obatyan1

ここまできて「この人はダメだ。」と確信した。

2012-12-15 15:42:23
obatyan @obatyan1

いったいいつ?どこで?誰が?何のためにこの山下俊一という大学教授を福島に入れたのだろう?一つだけ分かることは、この人のおかげで逃げ遅れた人が多数いるということだ。飯舘村は、講演会で大丈夫と聞いた翌日に避難区域になったと聞いた。この人の責任は重大だと思う。

2012-12-15 15:48:13
obatyan @obatyan1

3月23日に私たちはSPEEDIの存在を知った。同じ頃夫がタバコの煙を地形の模型に流したという映像をネットで発見。その先は、飯館村だった。いいだてが危ない!だけど、実際に飯館村の人々が避難したのは5月10日くらいだったと思う。しかも!放射線量が高い中通りに…。

2012-12-15 15:52:32
obatyan @obatyan1

避難の映像は良く覚えている。テレビで流れたから。「これで子ども達を外で遊ばせる事ができます。」とうれしそうに笑う若い母親の顔を見て、「何でもっと安心なところに避難させないのか?」とはらわたが煮えくり返る思いをした。

2012-12-15 15:54:25