赤穂事件について

赤穂事件についてまとめです。
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@miohiroko

1188[赤穂事件]刑罰はひとまず横へ置き、今どきの風物詩になっている赤穂事件(赤穂四十七士の例のお話)について少し取上げることにしたい。これについてはこのツイッターだけでも専門・得意とされる垢が多く、詳しくはそれに譲るとして、ここでは概略と、あとは注意すべき事を二、三着目したい

2012-12-07 09:34:23
@miohiroko

1189[赤穂事件]忠臣蔵として人口に膾炙しているこの事件、講談や演劇類で扱われているものの大半は脚色、創作されたもの。忠臣蔵を史実として楽しみたいという方も多いと思うが、楽しみたいという願望が作り上げた作品であり、実際はだいぶ違う。

2012-12-07 09:44:59
@miohiroko

1190[赤穂事件]まず、確かな出来事だけ追ってみることにする。元禄14(1701)年3月。毎年この時期には京都の朝廷から勅使が江戸に下向し、新年の挨拶の答礼として将軍家に挨拶をする。挨拶といっても有職故実にのっとった堅苦しいもの。それだけに手抜きは許されなかった。

2012-12-07 09:52:33
@miohiroko

1191[赤穂事件]挨拶の儀式そのものはさほど時間はかからず、1日だけのこと。しかし、遠路はるばるやって来られるのだから、挨拶をかわして終わりというわけにはゆかない。幕府はこれだけ皇室を尊崇していますという態度も示す必要がある。そこで歓迎行事もいろいろ行われた。

2012-12-07 09:55:44
@miohiroko

1192[赤穂事件]勅使が江戸に滞在している間、毎年小大名の中から饗応役を選び、必要経費の負担も兼ねて全般を取り仕切らせた。この年、勅使饗応役に指名されたのが赤穂浅野家。なお、この年は東山天皇の勅使のほかに霊元上皇の院使も同行し、院使担当として四国伊予の吉田藩伊達家が指名された。

2012-12-07 10:01:46
@miohiroko

1193[赤穂事件]饗応役は儀式の細目に通じている必要があり、その指南役としてこの年は吉良上野介が任された。吉良家は高家(こうけ)といい、大名ではない。よって禄高は低いが、幕府の儀典係として格式が高く、儀式の指南による謝礼が重要な収入源となっていた。

2012-12-07 20:47:37
@miohiroko

1194[赤穂事件]浅野が吉良に指図を受けるにあたっていろいろあった事が忠臣蔵で描かれ、だから刃傷事件を引き起こしたというようにされているが、じつはそのほとんどは記録類に一切なく、つぶさに見ればおかしいことだらけ。なので、ここではそれは省くことにする。

2012-12-07 20:53:52
@miohiroko

1195[赤穂事件]元禄14年3月14日、この日は将軍から勅使への答礼の日で、幕府としては最重要な行事だった。この日の朝、江戸城内松の廊下で突然、浅野内匠頭が吉良に脇差で切りつけた(太刀は所持できない)。刃傷松の廊下として有名な場面で、もちろんこれは事実。

2012-12-07 21:00:55
@miohiroko

1196[赤穂事件]浅野はすぐ取り押さえられ、吉良は背中と額にちょっと傷を負っただけで命に別条なし。直ちに浅野は取調べを受けたが、朝廷をとても尊崇する将軍綱吉は激怒し、喧嘩両成敗という家康以来の鉄則を無視して浅野は即日切腹、吉良は手向かいせず神妙としてお構い無しとなった。

2012-12-07 21:05:11
@miohiroko

1197[赤穂事件]主君が切腹となると、同時に城と領地は召し上げ、つまりお家が断絶となり、すべての藩士が路頭に迷うことになる。そのため、老中や目付け衆の中にはもう少しよく吟味をし、真相を明らかにしてから処分をと進言する者もいたが、権勢並び無き柳沢吉保がそれを押さえてしまった。

2012-12-07 21:10:05
@miohiroko

1198[赤穂事件]切腹は武士にとってはメンツを保った処刑方法である。ところが、浅野の切腹は邸内の座敷ではなく、庭で行われた。これは庶民扱いである。異を唱えることもできないまま、14日の夕方、浅野は35歳の若さで露と消えた。以上が発端。

2012-12-07 21:14:27
@miohiroko

1199[赤穂事件]主君の刃傷、即日切腹の知らせが赤穂にもたらされ、どう対処するかで連日赤穂城内は大激論。籠城、切腹(殉死)、報復(仇討)など様々な意見が出たが、幕府に嘆願し、城明け渡しと決まった。が、これに納得できない者たちが早速離脱し、全藩士の統一行動は早くも瓦解した。

2012-12-08 06:27:40
@miohiroko

1200[赤穂事件]ここから凡庸と見えて昼行燈とまで揶揄された城代家老の大石内蔵助が活躍を始める。大石はなかなか本心を明かさない。当初から復讐と決めていたとする説から、何も考えてなく、むしろ穏便にと願っていたのでは、とする説までさまざまな憶測がなされているが態度を明確にしなかった

2012-12-08 06:35:35
@miohiroko

1201[赤穂事件]やがて城明け渡しとなり、藩士たちは各地へと散ってゆく。なにしろ大勢なのでさまざまなドラマがあるが、これもまた事実と虚構がないまぜになっていて、そのまま受け取ることはできない。大石は浅野内匠頭の舎弟大学によるお家再興に期待をつないだが、大学は広島へお預けの処分。

2012-12-08 06:42:22
@miohiroko

1202[赤穂事件]内匠頭には子がなく、舎弟も広島の浅野宗家へお預けとなったことで、播州赤穂の浅野家再興の夢は無くなった。以後、大石は急進派と同じく吉良への復讐へと腹を決めた。が、再興に期待していた者たちは失望や怖気づくなどして次々と離脱し、人数は最終的に47人にまで減ってしまう

2012-12-08 06:47:41
@miohiroko

1203[赤穂事件]元禄15年12月14日(当時は夜明けが1日の始まりで、正確には15日)、赤穂浪士たちが本所松坂町の吉良邸に討ち入り、2時間の死闘の末に吉良を討ち果し、使者2人を自首のため大目付宅へ向かわせ、後の者たちは亡君に報告のため高輪の泉岳寺へ。

2012-12-08 06:54:30
@miohiroko

1204[赤穂事件]15日は大名総登城日でただでさえ幕閣も江戸城も慌ただしいところへ、大目付から吉良邸討ち入り、赤穂浪士たちが自首の知らせが入り、上から下への大騒ぎ。が、今回は将軍は激怒しないどころか、むしろ喜ぶさままで見せた。46人(あとで説明)は4大名家へ分けてお預けとなった

2012-12-08 06:59:26
@miohiroko

1205[赤穂事件]およそ2か月弱、幕閣ではどう処分するかで悩んだ。将軍もまた今回は強権をもって独裁することをためらい、どうすべきかを学者らに諮問したり、法親王に悩みを打ち明けるなどしたが、気鋭の荻生徂徠による法にもとづく処分を受け入れ、一党は切腹と決まった。

2012-12-08 07:03:31
@miohiroko

1205[赤穂事件]以上が赤穂事件の大略。江戸城中で刃傷があり、即日切腹させられた家臣たちがおよそ1年10か月ののち相手を討ち果したというもので、今にいたるまで武士の鑑、忠義者、これぞ武士道と称賛されている。だから伝統芸能でも多く扱われてきたわけだが……

2012-12-08 07:08:49
@miohiroko

1206[赤穂事件]史実でありながら真相がよくわからないという事がこの事件には多い。そのうちの2、3について紹介する。まずは寺坂吉右衛門について。

2012-12-08 09:17:18
@miohiroko

1207[赤穂事件]四十七士の中で最も身分が低いのは寺坂吉右衛門。足軽である。足軽は警護をする者で、正式な武士には列せられない。かといって庶民でもなく、微妙な立場だが、とにかく二本差しの武士とは違う軽輩者だ。

2012-12-08 09:24:06
@miohiroko

1208[赤穂事件]寺坂吉右衛門は四十七士の一人である。が、この人は仇討には参加していないという説があり、それを支持する人は四十六士と言っている。これがなかなかはっきりしない部分で、討ち入り当夜、吉良邸門前までは確かに居たが、一党が邸内に乱入した時にはすでに消えたとする説がある。

2012-12-08 13:32:26
@miohiroko

1209[赤穂事件]また、一党とともに突撃し、吉良を討ち果して邸の外へ出る時までは一緒だったが、その直後に消えたとする説もある。説だらけなのは、まったく確かな記録も証拠もないからで、不思議な存在となっている。

2012-12-08 13:36:51
@miohiroko

1210[赤穂事件]寺坂は討ち入りの前後に一度姿を消すが、その後日本各地に散らばっている義士(便宜上こう呼ばせてもらう)たちの家族や親類などの元へ行き、討ち入りの報告や頼まれた言葉などを伝えていることから、この役目のために大石や幹部たちがわざと逃がしたという説もある。

2012-12-08 13:46:27
@miohiroko

1211[赤穂事件]寺坂の事後の行動から類推したもので、大石らがそう頼んだり指示したという証拠はない。が、道の遠近を問わず、長い時間をかけて東奔西走した事実は、よほど確かな申し合わせがなければ寺坂の思いだけでは貫徹できるものではない。足軽は責任がとても軽い身。にもかかわらず、→

2012-12-08 13:52:19
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