名将 立花宗茂を巡って

立花宗茂の生涯(史実)は、本宮ひろ志のフィクション漫画のようにドラマチックで爽快なので、NHK大河ドラマなどで紹介されれば一躍ブームになると思います。(少しずつ更新します。)
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森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

①みなさんが一番好きな戦国武将は誰でしょう?私は、立花宗茂公です。全国的にはあまり知られていないかもしれませんが、関ヶ原合戦の西軍に参加して領地を失った後、再度同じ領地を得た唯一の武将です。

2013-01-05 06:15:58
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

②先日、ずっと行きたいと思いながら果たせなかった、九州の柳川市をやっと訪問することができました。立花宗茂が豊臣秀吉によって13万石の領主として入封し、関ヶ原合戦による改易後、徳川によって同じ柳川領主となった希有な例です。

2013-01-05 06:20:42
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

③ 柳川城址の近くにある『御花』という伝統あるホテルと資料館には、立花宗茂の甲冑や弓、刀をはじめ、明治まで続いた立花家の宝物が納められています。明治維新と太平洋戦争の敗戦(華族の廃止と9割の資産課税)を経て、大名家の宝物がこれほど保存されている例はほとんどありません。

2013-01-05 06:23:57
ハモル @hamorukana

宿泊したことあります @Todaidon: ③ 柳川城址の近くにある『御花』という伝統あるホテルと資料館には、立花宗茂の甲冑や弓、刀をはじめ、明治まで続いた立花家の宝物が納められています。明治維新と太平洋戦争の敗戦(華族の廃止と9割の資産課税)を経て、大名家の宝物保存

2013-01-05 10:58:56
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

④ 立花宗茂は、永禄10年(1567年)に生まれました。同年に、伊達政宗や真田幸村(信繁)が生まれており、戦国時代後期の若い世代です。

2013-01-05 06:29:10
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑤宗茂は、岩屋城籠城戦で有名な高橋紹運の長男として生まれ、請われて立花道雪の養子として立花家を継ぎます。紹運も道雪も大友家の重臣であり、道雪の武名を武田信玄が聞き、ぜひ一度会ってみたいと語ったという逸話もあります。

2013-01-05 06:32:54
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑥豊臣秀吉が九州遠征を行った際、劣勢の大友家の中で、島津を相手に輝かしい武勲をあげた宗茂に対して、秀吉は「武功と忠義は鎮西一」と激賞し、全国の諸侯の前で『東の本多、西の立花』と絶賛します。本多とは徳川の家臣、本多忠勝のことで、以来忠勝との親交も始まります。

2013-01-05 06:37:00
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑦宗茂は実父紹運や義父道雪に薫陶を受けた戦場での采配や弓馬に優れており、少人数でも大軍を相手に武功をあげたことが、秀吉や小早川隆景から賞賛されています。慶長の役でも大軍に囲まれた加藤清正の軍を救援し、日本軍の全滅を防ぎました。

2013-01-05 06:43:09
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑧関ヶ原合戦では、徳川家康をはじめ、盟友の加藤清正や黒田長政から東軍に熱心に誘われますが、秀吉から見出された恩と、主家だった大友氏の関係で西軍につき、大津城を攻撃します。

2013-01-05 06:45:29
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑨立花軍は道雪が考案した銃の連射法がこれまでの3倍速く、宗茂の采配による機動性を含めて、大津城戦でも東軍を圧倒していたそうですが、関ヶ原合戦が1日で終わったために大坂城に引き上げて大坂城での籠城戦を進言しました。 しかし、西軍の総大将である毛利輝元は、

2013-01-05 06:51:15
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑩自らの本領安堵の条件を得て、戦意を喪失しており、やむなくそのまま領地である九州の柳川に帰還することになります。大津城戦ではほとんど兵力を失っていなかった立花軍は、途中で島津軍と遭遇します。島津軍は関ヶ原での的中突破で多くの兵が戦死しており、

2013-01-05 06:55:51
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑪島津義弘を中心に80名前後の満身創痍の状態でした。このとき宗茂の家臣は、『今こそ父や大友家の仇を取りましょう』と進言しますが、『相手が弱っているところを責めるのは武士のすることではない』と退け、逆に島津軍の護衛を島津義弘に申し出ます。島津はこの対応に感激し、

2013-01-05 06:58:58
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑫以後、立花家が危急の時には協力することを約束します。(実際に島津は、立花宗茂が柳川に帰国後に東軍に責められたときに援軍を出しますが、国境まで来たときに宗茂が加藤清正に降参したため、兵を引き上げました。)

2013-01-05 17:37:27
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑬加藤清正も恩人である立花宗茂に対して、戦後の講和を含めて徳川家康にとりなそうとしますが、西軍として戦った立花に対して命は助けたものの、柳川領を改易(かいえき:領地没収)の判断を下します。

2013-01-05 17:41:03
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑭立花宗茂が改易された際には、宗茂を慕っていた領民や農民が宗茂に領内にとどまってくれるよう懇願した記録が残っています。実際に、立花家の後に柳川領主となった田中吉政は、領民にそれまでの約2倍の重税を課し、

2013-01-05 17:44:52
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑮柳川城の5階建ての天守閣をはじめ、城下町に水路を整備して、後に明治の北原白秋の歌で有名な「水郷・柳川」の城下町を作り上げますが、領民は疲弊し、不満が募ったと言われています。

2013-01-05 17:47:34
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑯さて、浪人となった立花宗茂は、その武名を惜しんだ加藤清正をはじめ前田幸長などの大名たちから高禄で召し抱えると誘われますが、いずれは四散した家臣たちとまた暮らしたいと断り、江戸に旅に出ます。このあたりの物語はまるで時代劇に出てくる主人公ですが、

2013-01-05 17:51:05
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑰由布雪下ら、立花家の歴戦の重臣が宗茂を慕って共に旅をして、生計を立てるために虚無僧姿での托鉢や寺子屋の塾などをしていたときに、

2013-01-05 17:54:02
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑱ 別の複数の浪人たちから絡まれて金品を奪われそうになったときに、やむを得ず瞬時に数名を斬ったことが話題となり、それを聞いた徳川家康に見いだされるきっかけとなります。このときには、かつて両雄と並び称された本多忠勝の口添えもあり、5千石の旗本として召し抱えられることになりました。

2013-01-05 17:58:53
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑲ 家康は、関ケ原合戦のおり、宗茂が大津城攻めから引き上げる途中で、部下から瀬田橋を落として東軍を足止めしようとする進言を受けた際に「古来から瀬田橋を落として利を得た者は一人もいない。地元の領民の迷惑になるからやめよ」と対応したことに好印象を抱いており、

2013-01-05 18:03:19
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

⑳ また、関ケ原合戦で遅参という失態を演じた徳川秀忠の傍に宗茂を置いて軍事における相談役としての役割を命じます。このことが、大坂夏の陣の際に、戦に不慣れな秀忠を宗茂がよく補佐したことで、

2013-01-05 18:09:06
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

㉑ 秀忠、ひいては家康が、豊臣方の真田幸村(信繁)などの猛攻を抑えて、大坂城攻めを成功させた一因ともなります。秀忠は常に宗茂に意見を求め、宗茂は豊臣方の猛攻と疲れによる撤退を常に言い当てたため、

2013-01-05 18:12:43
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

㉒ 兵を出す指図と引く指図を滞りなく行うことができ、秀忠の将軍としての指揮の面目が保てたといわれています。(続く)。。。

2013-01-05 18:26:22
丹野順一 @tanenori

九州の戦国大名と思ったら、一時棚倉藩だったのか。φ(・ω・ )かきかき.@Todaidon さんの「名将 立花宗茂を巡って」をお気に入りにしました。 http://t.co/wjoeq2HZ

2013-01-05 18:52:41
森本卓哉 Takuya MORIMOTO @Todaidon

@tanenori コメントをありがとうございます。書いていませんでしたが、宗茂は5000石の旗本からほどなく1万石に加増され、福島県の棚倉藩の初代藩主になっています。さらに柳川再封まで3万石に加増されたのは将軍家からの信頼はもちろん、大坂城の豊臣家に味方しない布石だったのかも。

2013-01-08 17:39:34