体罰は「程度問題」である――殴る強度の話ではなく――

「犯罪者に対する刑罰,秩序を乱すものへの制裁,バカなことを言う人への批判,子どものいたずらを叱ること,体罰,いじめなどはすべて「嫌悪刺激による行動の制御」が意図されている点で共通性がある。」 by @ynabe39
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渡邊芳之 @ynabe39

「体罰は教育ではない」「しつけと体罰はちがう」といった議論があちこちでされているが,およそすべてのものには共通点と差異がある。体罰と教育(の少なくとも一部)やしつけ(の少なくとも一部)の共通点は「嫌悪刺激による行動の制御」が目的であることだ。

2013-01-16 07:34:25
渡邊芳之 @ynabe39

「嫌悪刺激による行動の制御」とは「本人に嫌な思いをさせることを利用してなにかをさせたり,なにかをやめさせたりすること」で,正の罰(悪い行動をしたら嫌な思いをさせて悪い行動をやめさせる)の強化(よい行動をしないと嫌な思いをさせることでよい行動をさせる)の2種類に分かれる。

2013-01-16 07:37:26
渡邊芳之 @ynabe39

犯罪者に対する刑罰,秩序を乱すものへの制裁,バカなことを言う人への批判,子どものいたずらを叱ること,体罰,いじめなどはすべて「嫌悪刺激による行動の制御」が意図されている点で共通性がある。

2013-01-16 07:40:17
渡邊芳之 @ynabe39

いっぽう制御の行われる場や制御の目的,誰が制御し誰が制御されるか,用いられる嫌悪刺激は何でどの程度か,制御の成果や副作用はどうか,などがそれぞれの間にある「差異」である。

2013-01-16 07:41:24
渡邊芳之 @ynabe39

これらの間にある「共通性と差異」をはっきりさせることは議論に非常に役立つ。根本的な問題として「われわれの社会から嫌悪刺激による行動の制御を追放できるか」ということがある。スキナーが「罰なき世界」を提唱したのは「嫌悪刺激による行動制御そのものを望ましくないものと考えた」からである。

2013-01-16 07:43:53
渡邊芳之 @ynabe39

しかしわれわれは一般的に「犯罪者や社会秩序を乱す者を嫌悪刺激によって制御する」こと自体は(好むわけではないにせよ)容認している。学校での子どもの行動を嫌悪刺激によって制御することについても「先生が子どもを叱る」こと自体を否定する人はほとんどいないと思う。

2013-01-16 07:46:58
渡邊芳之 @ynabe39

承前。そうであれば「嫌悪刺激による行動制御」そのものは「必要悪」として受け入れた上で,どのような場でどのような目的でどのような方法で行われる「それ」は許容でき,どのような「それ」は許容できないかの線引きをしなければならない。それが私の言っている「程度問題」ということだ。

2013-01-16 07:56:54
渡邊芳之 @ynabe39

繰り返すけれどもスキナーはそこで「程度問題ではない立場」を主張したわけだけれども,その主張はアメリカでもほとんど受け入れられなかったし,社会そのものが嫌悪刺激による制御に大きく依存している日本ではますます受け入れられないだろう。

2013-01-16 07:58:03
渡邊芳之 @ynabe39

スキナーの立場を補足すれば,彼は行動の制御は「よい行動にはよい結果を与えること(正の強化)」「悪い行動にはよい結果を与えないこと(負の罰)」によって行われるべきだと考えた。彼の著書 “Walden Two” が「心理学的ユートピア」という邦題で出版された理由は簡単にわかるだろう。

2013-01-16 08:01:42
渡邊芳之 @ynabe39

「共通のルールを守らない行動」を刑罰と言う嫌悪刺激によって制御するわけで,同じです。 RT @beepcap: 刑罰だけは、共通のルールを守ってる上での事だから意味が違うのでは?

2013-01-16 08:33:02
渡邊芳之 @ynabe39

共通性と差異がある時に,共通性を見ないで「それぞれ違う」とだけ言うのも差異を見ないで「ぜんぶ同じだ」というのも,どちらも不適切だ。しかし「共通性だけが言われているとき」には差異を強調し,「差異だけが言われているとき」には共通性を強調するのは,「議論の方法」としてはありうる。

2013-01-16 08:37:20
渡邊芳之 @ynabe39

「刑罰といじめは違う」「しつけと暴力は違う」というように「違うということだけ」が言われている時にはあえて「それらの共通点」について考えたくなるのも学者的な感覚である。

2013-01-16 08:38:43
渡邊芳之 @ynabe39

「(体罰の起きた)体育科をなくせば体罰がなくなる」という発想は内藤先生の「学校をなくせばいじめはなくなる」と通底していて,その間の差は「程度問題」である。さて「望ましい程度」はどのあたりにあるか。

2013-01-16 08:47:52
渡邊芳之 @ynabe39

生徒間のいじめと教師による体罰や教師による生徒いじめは「同じことが違う人によって行われている」だけの違いしかないのにどうして前者ばかりが問題にされるのかは気になっていたので,その点に議論が広がるのはよいことだと思う。

2013-01-16 08:51:19
渡邊芳之 @ynabe39

体罰(生徒の行動を制御するための肉体的暴力)を禁止するとして「体罰以外の嫌悪刺激を使って生徒を制御するのはいいのか」というのはやはり「程度問題」としてどこまでも残ると思う。殴らないで「口で言う」のなら何を言ってもいいわけではないだろうし。

2013-01-16 09:12:13
渡邊芳之 @ynabe39

「体罰は期待されているような結果を実際に達成しているのか」とか「体罰に期待されているのと同じ効果を体罰以外で達成する方法はないのか」とかについての「クールな実証研究」というのも重要だと思う。

2013-01-16 09:21:39
渡邊芳之 @ynabe39

もし「促すため」に行われているならそれは心理学者的には「罰ではないだろう」と思いますね。 RT @hachipro: 体罰について生徒の問題行動に対してされる場合と、生徒のレベルアップを促す目的でされる場合とニュアンスが大きく異なると思います。…

2013-01-16 09:22:44
渡邊芳之 @ynabe39

「そもそも世の中に体罰といわれているものにはどんなものがあって,どのように分類できるか」から考えないとダメか。その中には心理学的には「正の罰(正の弱化)」であるものと「負の強化」であるものが混在していると思うし。

2013-01-16 09:32:35
渡邊芳之 @ynabe39

最終的には「比較的多くの人が教育の正当な方法だと認めるものは教師が行っても体罰だとか暴力だとかいわれない」というところにしか収斂しないのだと思うけど,じゃあどのくらい多くの人が認めればいいのかとかグレーゾーンはどこまでも残るよね。

2013-01-16 09:37:34
渡邊芳之 @ynabe39

そして「人々の承認」は時代や文化によっても大きく変化する。私が小学校5年だった1973年にはいまの日本であれば明らかにいじめであるもの,明らかに体罰であるものがごくふつうに放置されていた。みんな「そのくらい当たり前だ」と思っていたからだ。

2013-01-16 09:42:43