画家・永瀬恭一 「《完成》は恣意的な判断にすぎない」
以前どこかでも言ったけど、近代以降の絵画は原則として常に次の一筆が加筆される可能性に開かれている。売却された絵にすら加筆した画家がいる。
2013-02-02 14:59:48「完成」後の加筆のの可能性が一応絶たれるのは、たかだか作者の生物学的な死という恣意性に基づいた制度にすぎない(作者がなぜか死なない可能性は荒川的に言って常に残される)。
2013-02-02 15:01:57漱石の「明暗」が、しかし漱石の死後に書き継がれたという事実があるように、原理的に言えば作者が死んだ後の絵にすら加筆可能性は残っている。
2013-02-02 15:03:11例えばMOMAのピカソの絵に上からスプレーした「犯罪者」がいるわけだけど、それが「犯罪」であるか、新たな「加筆」であるかの判断は正確には言えない。
2013-02-02 15:07:31僕の知るMOMAの「事件」例は、明らかに「加筆者」が後から洗浄=原状回復可能であることを事前に狙って行為に及んでいた、その「良識性」に逆説的に犯罪性が宿っていた。元に戻せる用にスプレーするなど絵画性の原理において単なる犯罪でしかない。
2013-02-02 15:08:48例えばマチスの絵画がとめどなく変更され続ける、その結果画面が「完成」したから止まったのだと考えるのは無理がある。その“プロセスとバリエーション”を見れば、いわば「完成」は実に恣意的な判断、仮止めのようなものに過ぎないことは明快であることは過去にも指摘されている。
2013-02-02 15:11:23真に自信とインスピレーションを持った画家ならマチスをリムーバー等も使って書き直すだろう。多くの画家がそれをせず普通に自分の新作を描くのは、半ば現実的労力という経済観念にすぎない。
2013-02-02 15:30:04それに耐えきれずに絵画を離れた若き日の自分 RT @nagasek 【絵かきあるある】自分の絵が完成してるのかどうかが分かりません。
2013-02-02 16:22:04映画も絵画と同じように、どこかに完成していると思えない要素がある作品のほうが好きだ。そうではなかった可能性を想起させるようなショットや編集のある種の荒さみたいなところなのかもしれない。ゴダールの映画を見るときに良くそう思う。アントニオーニ的な完璧さとは異質な状態での完成。
2013-02-02 16:31:22