白石一文『翼』ツイッター連載小説
- kounoeakira
- 82099
- 1
- 1
- 328
翼 1-1 昨夜から熱っぽさとだるさは感じていたが、体温計の数字を見て唖然とした。 三十八度九分もある。 ちょっとどうしよう、と思わず声に出していた。急に力が抜けてそのまま仰向けにベッドに倒れこんだ。 右手をかざしてもう一度体温計を見る。やっぱり三十八度九分だ。
2013-05-22 00:00:02翼 1-2 今日は絶対に休めない。午前中の予定は飛ばせても、午後三時からの調印式にはどうしても出なくては。
2013-05-22 00:02:55翼 1-3 東京本社に移ってからの半年、今回の商談に全精力を傾けてきた。新任の営業課長代理として、上司、同僚、部下たちに自分の存在価値を印象づける絶好の取引だった。だからこそあんなに必死で働いたのだ。
2013-05-22 00:05:07翼 1-4 それがよりによって晴れの契約書調印の日にこんな熱を出すなんて。まったくもって最悪だ。 横になっているとますます具合が悪くなる気がして、立ち上がった。
2013-05-22 00:06:39翼 1-5 バスルームまで行くあいだにも身体がふらついた。シャワーはさすがにやめて、顔を洗い、火照(ほて)った身体を濡れタオルで丹念に拭(ぬぐ)った。部屋に戻ってドレッサーの前に腰掛ける。パフやマスカラを持つ手がかすかに震えるが、メイクはふだんより念入りにほどこした。
2013-05-22 00:08:06翼 1-6 先週伊勢丹で新調したスーツに袖を通したところで、ふーっと一つ大きなため息が出た。 このスーツだって今日のために作ったのに。 クソッと小さく呟(つぶや)いて、ふと、この部屋、暗いと思う。カーテンを閉め切ったままであることにようやく気づいた。
2013-05-22 00:10:05翼 1-7 リビングのベランダのカーテンを引き、寝室のカーテンも引いた。 まだ八時前だというのに真っ白な日射しがほとんど暴力的に降り注いでくる。
2013-05-22 09:04:49翼 1-8 今年の「太陽さん」はほんとどうかしてるよ。 太陽さん、とさん付けで呼ぶのがイヤになる。それは死んだ父が唯一教えてくれたことだった。
2013-05-22 09:06:42翼 1-9 「俺たちがこうして生命もらったのも、生きていけんのもみんな太陽さんのおかげやけんな。むかしの人は、そのことばよう知っとらした。やけん、お日さん、お天道(てんと)さん、と必ずさん付けで太陽さんのことば呼んどった。お前たちも絶対、太陽なんて呼び捨てにしたらいけんぞ」
2013-05-22 09:08:23翼 1-10 年中酔って暴れるどうにもならない父だったが、なぜかこの教えだけは小さい頃からずっと守ってきた。
2013-05-22 09:09:30翼 1-11 夏風邪なんて何年振りだろう? 東京の濁った空気のせいだろうか。いや、それよりもこの猛暑のせいに違いない。九年ぶりに浜松から戻り、すっかり様変わりした街並みに戸惑いながらも気を張って働いてきた。元気にやっているつもりでも知らず知らず疲労を溜め込んでいたのだろう。
2013-05-22 12:29:42翼 1-12 ベッドの縁に腰掛けて携帯でタクシーを呼んだ。 連日のうだるような暑さに辟易(へきえき)して、このところ週の半分はタクシー通勤にしている。名前を告げると「田宮様、いつもありがとうございます。二、三分で到着します」と配車センターの男性オペレーターが愛想よく言う。
2013-05-22 12:31:56翼 1-13 東高円寺のこのマンションから会社まで千円ちょっとだった。むろん自腹だけれど出勤前に汗まみれになるよりはずっといいと思っている。
2013-05-22 12:33:03翼 1-14 立っているだけで目が眩(くら)んでくる。熱のせいだ。ぐずぐずしていると身動きできなくなるような気がして、私はバッグを引っ掴むとさっさと自室をあとにした。
2013-05-22 12:33:53翼 1-15 会社に着いたのは午前八時十五分。さすがにまだ誰も出社していなかった。 十六階の営業部のオフィスにたどりつき、自分の席に腰を落ち着けたとたん、それまでの悪寒と倦怠感がかなり軽くなった。
2013-05-22 18:04:16翼 1-16 PCをたち上げメールリストをいつものようにチェックする。眼もかすまず、画面の文字への集中力も途切れない。車に乗っているあいだは、医院の看板を見つけるたびに「ちょっと止めてください」と思わずドライバーに声をかけそうになった。
2013-05-22 18:06:19翼 1-17 やっぱり会社に来てよかった。 一通り着信を確認し、必要なものには返信し、午前中の営業会議を欠席するむね高畑(たかはた)営業本部長に断りのメールを打ち込んだ。
2013-05-22 18:07:41翼 1-18 こちらに戻って来て一度だけ原因不明の湿疹で受診したクリニックがある。 新宿三井ビルの四階だから、目と鼻の先だ。歩いて五分とかからない。カードケースに入れた診察券を抜き出して確かめると午前九時から診察開始とあった。デスクに置いたデジタル時計の表示は八時五十分。
2013-05-22 18:09:08翼 1-20 九月になっても猛烈な暑さは一向にやわらいでくれない。一週間ほど前に大きな台風が関東地方を縦断して、それから二、三日のあいだ涼しげな風が吹いた。これですっかり秋めくのかと思いきや、今週に入るとふたたび日中の最高気温が三十五度に迫るような真夏日が再来している。
2013-05-23 08:53:00翼 1-21 来週はもう彼岸の入りだ。 明後日十八日の土曜日には私も故郷の久留米に帰る。二十日の敬老の日に市内の菩提寺で母の七回忌の法要を予定していた。 夏風邪をこじらせて帰郷がさらに重荷になるようなことは避けたい。
2013-05-23 08:54:27翼 1-22 法要の手筈(てはず)は伸也(しんや)が整えてくれているはずだが、なにぶん諸事ちゃらんぽらんな弟のことだ。段取りに穴が空いていないわけがない。結局は、私があれこれ確認を入れて遺漏のなきよう当日まで穴塞ぎに励まねばならない。
2013-05-23 08:55:39翼 1-23 私が勤める浜松光学の東京本社は西新宿グリーンタワービルの十五、十六階にある。 中央のエレベーターホールを挟んで百五十坪のオフィスが各フロアに南北一つずつ。計四つのオフィス・スペースにさまざまなセクションが詰め込まれている。
2013-05-23 12:42:27翼 1-24 長い不況下にあっても年々業績が急拡大している当社にすれば、この東京本社は手狭過ぎた。営業本部が使っているのは十六階の南側オフィスだったが、増え続ける人員を収容しきれず、一部は十五階のかつて応接室が並んでいた場所に引っ越していた。
2013-05-23 12:43:08翼 1-25 私が営業二課長代理を務める光半導体営業部は、いまや社の主力商品となったフォトダイオードを扱っているので十六階をそのまま使っているが、度重なる増員で課員たちのデスクの置き場にさえ困るような有様だ。
2013-05-23 12:44:05