日本国憲法は愛国の夢を見るか

憲法は、国を縛るか、国民を縛るか。国を縛ると思っている人の「愛国」と、国民を縛ると思ってる人の「愛国」では、愛する「国」の形が違うんじゃないか、とそんなことを考えながらした連続ツィートのまとめです。
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kaz hagiwara(萩原 一彦) @reservologic

1 「国」というものを、「個人の自己実現のための共用スペース」としてとらえるか、「一蓮托生の運命共同体」のようなものとしてとらえるか。共和国や立憲君主国の憲法の精神は、あきらかに「国」を前者のようにイメージしている。むろん日本国憲法も。

2013-05-03 01:13:01
kaz hagiwara(萩原 一彦) @reservologic

2 憲法のイメージする「国」は「個人の自己実現のための共用スペース」だから、憲法は当然、個人の自由で健全な自己実現を歓迎しそれを制限しようとする国に制約を課す。「一蓮托生の運命共同体」としての「国」を夢見る人達にとって、だから憲法は邪魔なものに見えるかもしれない。

2013-05-03 01:13:08
kaz hagiwara(萩原 一彦) @reservologic

3 もちろん憲法も「国」を守ろうとする。しかし、日本国憲法が守ろうとしている「国」とは「個人の自己実現のための共用スペース」としての「国」であることを忘れてはいけない。だから、憲法は国民に「愛国」を強いない。逆に憲法は国に個人の自己実現を邪魔しないことを強いる。

2013-05-03 01:13:17
kaz hagiwara(萩原 一彦) @reservologic

4 憲法は国民に「愛国」を強いないけれども、個人個人の心の中には日本国憲法が保証する「個人が自己実現できる環境」を守りたいという意味での「愛国」心が生まれるかもしれない。それを憲法は否定しない。だから憲法は自衛のための戦争を容認する。

2013-05-03 01:13:24
kaz hagiwara(萩原 一彦) @reservologic

5 憲法はまた、憲法自身が素晴らしいと信じている自分自身の姿を容易に変えてほしくはない。だから、それを本当に変えたいならば、議会の圧倒的多数がそう思うことを要求する。それが憲法96条。つまり自分が保証した「個人の自己実現」の結果が「改憲」なら憲法にはそれを受け入れる用意がある。

2013-05-03 01:13:35
kaz hagiwara(萩原 一彦) @reservologic

6 このように見てくると、憲法は自分でものを考えられる「個人」を前提としていることがわかる。その意味で日本国憲法は日本という国に「個人」があることを信じている。ならばメディアを信じる人が70%もいる日本の現状は日本国憲法の前提条件を満たしていないかもしれない。

2013-05-03 01:13:43
kaz hagiwara(萩原 一彦) @reservologic

7 もし自分でものを考えない、考えたくない人達が大多数なら、そこには「一蓮托生の運命共同体としての国」の雰囲気が生まれやすい。そこでは「愛国」を強制したい気分が生まれやすい。でも、日本国憲法はそのような「国」を想定していない。

2013-05-03 01:13:53
kaz hagiwara(萩原 一彦) @reservologic

8 だから、日本で現行の日本国憲法を守るというのは、「一蓮托生の運命共同体」から「個人の自己実現」を守るということを意味している。それでも日本国憲法は、改憲を容認する。つまり、日本国憲法は、憲法自身が前提とした「成熟した個人」の少ない国からは去っていく運命なのだと思う。

2013-05-03 01:14:02
kaz hagiwara(萩原 一彦) @reservologic

9 日本という国が日本国憲法に愛想を尽かされないためには、ぼくたちは、メディアの精神支配から脱して、自分でものを考えられる個人にならないといけない。現行憲法が個人の自由な自己実現を保証してくれているうちにそれをしないと、憲法は、泣く泣くぼくらのもとを去っていく。

2013-05-03 01:14:12
kaz hagiwara(萩原 一彦) @reservologic

10 以上、そんなことを憲法について考えてみました。

2013-05-03 01:14:28