マンガや芸能人の批評記事を書くと返ってくる批判

「マンガや芸能人の批評記事を書くと返ってくる批判というのは自分の好きなものを批判するなという気分だけ」という@useshinzzさんのつぶやきからはじまる「同質性」のおしつけと「自己の拡張」についてのツイート集。
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うえしん @ueshinzz

マンガや芸能人の批評記事を書くと返ってくる批判というのは自分の好きなものを批判するなという気分だけ。自分の好きなものを貶めるな、それだけ。自分の好き嫌いが「善」であり、「正義」であり、「神」なのである。自分の好きな食べ物を批判するのは許せない。他人も快苦を共有しろということ。

2010-09-11 10:37:55
うえしん @ueshinzz

マンガや芸能人のファンは自分の好き嫌いの情動段階にとどまっている。自分の好き嫌いが世界の二分法である。自分の好きにケチをつけられるのが許せない。だれでも通る道だからわたしもわかるのだが、人は成長するにつれ、わたしの好きが他人と違い、共有できないことを知ってゆく。あきらめてゆく。

2010-09-11 10:42:00
うえしん @ueshinzz

情動と身体はぴったりと同一化し、自分の快と苦を客観視したり、距離をおくことができない。情動と世界にくさびを打ち込むのが言語であり、思考であり、それが自己の客体化、客観視をもたらす。好き嫌いの世界は情動と不可分のまま。マンガやTVというのは情動でつがなり、言語の分離をもたらさない。

2010-09-11 10:50:27
うえしん @ueshinzz

情緒的世界から言語的世界の成長がかならずしも絶対の成長とは思わないが、自分の情緒的世界からの分離が社会との適切な距離をつくったり、他人との違いに寛容になれる素地をつくるものである。本を読めというおっさんのたわごとをうさんくさく思ってきたが、言語化を構築する能力は必要。

2010-09-11 11:01:12
うえしん @ueshinzz

マンガやテレビは自分の情緒や好き嫌いだけで世界とつながる人間をつくってしまう。言語が情緒と自己の距離化と客体化をもたらす。マンガやテレビに寛容でありたいと思ってきたが、自分の好き嫌いや情緒を善や正義と切り離せない人をみているとこれはたしかにヤバイ。

2010-09-11 11:09:31
sa-sho- @sasho2

@ueshinzz 感情移入してしまうと一体感が生じて、それが批判されると自分が批判されてるみたいな錯覚に陥ってしまうんですかね。RT @ueshinzz 自分の好き嫌いや情緒を善や正義と切り離せない人をみているとこれはたしかにヤバイ。

2010-09-11 11:13:58
うえしん @ueshinzz

そうですね。人間は好きなものや所有するものを「自己」と思います。自己の分離をおこなうのが言語であり、マンガなどの視覚文化は情動との分離をもたらしません。@sasho2 感情移入してしまうと一体感が生じて、それが批判されると自分が批判されてるみたいな錯覚に陥ってしまうんですかね。

2010-09-11 11:18:38
@Jun11921

@ueshinzz @sasho2 対象化って問題は、距離をとれなくさせてしまう現実生活での内面性のあり方の問題とも絡むと思うんですよね。テレビを相対化するものが現実にあるかないかで大きく変わってくる。ネットもしかり。

2010-09-11 11:26:16
うえしん @ueshinzz

中学のころ自分の好きなマンガや映画は神のような絶対的なものだった。圧倒的に影響されて、つかまれた。しかしおっさんになってくるとそんな情熱をうしない、大好きなマンガも映画もなくなってきて、好きな物語が批判されても自分は傷つかなくなる。この成長をもたらしたのはただのあきらめか。

2010-09-11 11:27:06
@Jun11921

と、机を掃除しながら・・・またもや横から入ってしまいました・・・失敬・・。

2010-09-11 11:27:21
@Jun11921

情緒的なものの相対化ができないのは、やはり学校的な訓育教育がデカイのではないかなぁ・・・。そしてその中で展開されるマスプロコミュミュケーションのノリの世界。

2010-09-11 11:32:41
うえしん @ueshinzz

横入り歓迎(笑)。相対化というのはほかと比較することでなりたつ。自分の好きなことを好きでもないもうひとりの自分、他者を想定することで生まれるのでしょうか。。@Jun11921 …テレビを相対化するものが現実にあるかないかで大きく変わってくる。

2010-09-11 11:34:27
うえしん @ueshinzz

日本は空気や場の情動というものに水を差されるのをいやがりますね。そこの情動が絶対だ。学校の集団訓育につくられるものが大きいのかもしれませんね。@Jun11921 情緒的なものの相対化ができないのは、やはり学校的な訓育教育がデカイのではないかなぁ・・・。…ノリの世界。

2010-09-11 11:38:27
@Jun11921

@ueshinzz んです、んです、絶対化しないという意味ですね、要は寛容になるという事でもあります。相対化に向かうと必然的に議論というコミュニュケーションが発展して、距離感というものも生まれてきます。日本の場合は、絶対化から離れない事によって共感を得る仕組みはあると思います。

2010-09-11 11:43:42
うえしん @ueshinzz

マンガや芸能人の情緒的愛好から離れられない人がいるのは問題だと思う。「自分の好きなものは正しい」、「自分の好きなものを批判するな」という情緒で対抗してくるからだ。好き嫌いをこえたところで論議できない。

2010-09-11 11:46:14
@Jun11921

いあ、こうすると「ゆるキャラ」や「かわいい」といったような象徴の単純化も説明できるんですよね。単純化することでより多くの人間とつながろうとする。ただしその結果は、どんどん情緒的にならざる得ない。あまりにも論理を欠いて議論する幅が無くなる。

2010-09-11 11:47:29
@Jun11921

つまり、情緒的である場合も、多様な情緒を知ると、それはやはり相対化に向かわざる得ない。色んな情緒の比較から、議論の余地が生まれてくる。その経験の乏しさが絶対化という視野の狭さを産み落としていくのじゃないかな。

2010-09-11 11:56:21
うえしん @ueshinzz

日本の空気の暴虐というのは情動から離れられないところから起こるのかもしれませんね。芸能ファンみたいに情動だけで世界とつながる。情動の分離が課題なのかもしれませんね。@Jun11921 …日本の場合は、絶対化から離れない事によって共感を得る仕組みはあると思います。

2010-09-11 11:56:24
うえしん @ueshinzz

好きを絶対化してしまうと比較や相対化ができない。@Jun11921 つまり、情緒的である場合も、多様な情緒を知ると、それはやはり相対化に向かわざる得ない。色んな情緒の比較から、議論の余地が生まれてくる。その経験の乏しさが絶対化という視野の狭さを産み落としていくのじゃないかな。

2010-09-11 11:58:14
@Jun11921

実際に視野の狭さという事で先日びっくりしたのは、仕事で取引先のおっさんが、こちらに向かって「昨日のけいおん見た?神回だったよねぇー」と普通に話ししてきた時だった・・・@初対面。。。。「しらない」というと、遅れてるといわんばかりにとうとうと説明してきた・・・。

2010-09-11 12:01:00
うえしん @ueshinzz

自分の興味の狭さ、他人が自分と興味が違うことを理解していない。野球やサッカー、マスコミにもあることですね。自分の視野、興味は絶対。@Jun11921 「昨日のけいおん見た?神回だったよねぇー」と普通に話ししてきた時だった・・・遅れてるといわんばかりにとうとうと説明してきた。

2010-09-11 12:06:45
うえしん @ueshinzz

わたしなんか自分の趣味が哲学や思想だったためにだれにも話しかけない。通じないとわかっているし、興味もないと理解している。むかしフロイトの話をしてイタイとわかった。

2010-09-11 12:09:51
うえしん @ueshinzz

自分で考えるということは反逆することである。親に教師に上司に監督に盾つくということである。日本のだれが考えさせるだろうか。

2010-09-11 12:14:39
sa-sho- @sasho2

@ueshinzz そういうのは中高でもありましたね。「こういう音楽好き」と言うと「変わってるな」と言われたり。共通の何かがないとつながりが持てない。RT @ueshinzz 自分の視野、興味は絶対。RT @Jun11921 遅れてるといわんばかりにとうとうと説明してきた。

2010-09-11 12:20:16
sa-sho- @sasho2

中高生だとお互い一緒の趣味じゃないと「友達じゃない」みたいになるから流行に乗ったり空気を読んだりする。大人になってもそういうのがあるとしたらげんなりする。

2010-09-11 12:25:17